西洋思想の源流から見る倫理学

倫理学の定義

倫理学とは何か、という問いに答える方法は様々あるでしょう。人によってその答えに違いがあるでしょうし、その答えや答え方によって当人の考えている「倫理学」像が見えてくると思われます。

社会の秩序を維持し、そのメンバー相互の関係を整えるために、国家権力によって外面的な統制を加える規範(ルール)が法です。対して、内面からの力でルールを守らせようとするものが道徳や宗教などであると言われます。「倫理」も社会における規範・ルールの一つの形態です。しかしそれは法律とは違って国家による強制力をともなわず、内的な良心や習慣をもとにしています。

法をも含めて倫理学は問題にしますが、主として道徳や宗教のような、人の内心に関わる行動のルールを扱うのが一般的な倫理学の領域という事になります。これを言い換えれば、「人はいかに行動すべきか」「人はいかに生きるべきか」「どんな生を選ぶべきか」といった、哲学(知を愛し求めること)の中でも「人の生き方」に関わる分野が倫理学であると言えるかと思います。

古代から倫理学は広い意味での哲学の一分野でした。今日の大学において、倫理学が哲学科の中に置かれているのはそのためでしょう。

さまざまな立場

倫理学説には様々な立場があり、時代とともに変わってきました。しかしどの立場においても問題にするのは、今述べたように、人間の行動を左右するルール(規範)を明らかにしようというものです。その際、何が善くて何が悪いか、すなわち善・悪に関する見解によって、倫理学上の立場も異なってきます。

簡単に列挙するだけでも、快こそが善であるとする快楽主義、欲望を抑え避ける事によって善が得られるとする禁欲主義、大多数の人々の快こそ善であるとする功利主義、善悪の判断は体験や直観によってのみなされるという直観主義、善とは道徳法則への服従であるとするカント等の倫理学などです。

また、行動のルールを明らかにする従来の倫理学に対して、善悪の判断がどのような根拠にもとづいてなされるのか、あるいはそうした概念の意味を明らかにしようという試みが主として分析哲学の立場からメタ倫理学として提唱されています。

また人は「社会」と無縁で生きてはいけません。ですから倫理学は社会、国家、法律・制度との関わりをも問題にします。次に挙げるアリストテレスの『倫理学』が『政治学』へと続くものであるのはそのためです。

学問の分類とアリストテレス

倫理は人間の行動に関わる学問の一分野です。学問には様々な分野がありますが、それらを分かりやすい仕方ではっきりと分けた人に、アリストテレスという人がいました。アリストテレスは古代ギリシア世界の片隅、スタゲイラという町にBCE384年に生まれた学者です。スタゲイラは当時の文化の中心アテナイからはるか北方に位置する小さなポリスです。

note 廣川洋一『プラトンの学園アカデメイア』(講談社学術文庫)

アリストテレスは、アレクサンドロス大王が王子だった頃に、養育係として教育に当たったという伝承があります。彼は「万学の祖」と称される事もある程、様々な学問分野に関する研究を行っていました。最も得意だったのは生物学で、その他の今日言う所の自然科学分野に優れた業績を残しました。

とは言え悪名高き自然発生説や天動説等という、近代科学が批判するのもアリストテレスの自然学の一部です。哲学・思想の分野でも、後世において評判の悪い「目的論」の主張者でもあります。

現存する彼の「著作集」(Corpus Aristotelicumと呼ばれる)は極めて広い領域に渡っているますが、失われた著作も多いと推測されます。その思想体系には全体を通じて一貫した、「学問分野の区分け」についての理念があったと考えられます。

注目 倫理学の語源

「倫理学」を意味する近代語(英語ではethics、ドイツ語ではEthik、フランス語ではéthique)はラテン語のethicaに直接由来するが、さらには古典ギリシア語の’ηθικα´にまでさかのぼります。

この語はアリストテレスにおいて、hê êthikê theôri´a(以下ギリシア語フォントの無い環境を考慮してローマナイズします)すなわち「倫理学的考察」を意味し、「自然学的考察」と「論理学的考察」と共に、彼の哲学の三大領域を指しているとも考えられます。

→例えばTopica105b19ff

→Metaphysica E 1025b

ここに使われているêthikêは文字通りは「êthosに関する」という形容詞です。ですから「倫理学的考察」も「エートスに関わる考察」という意味です。「エートス」とは元々は「いつもの場所」という意味から「動物の住み家」や隠れ家を指す語です。この意味から「習慣」や「性格」という意味が派生してきます。この意味をヘシオドスやピンダロス、悲劇作家たちが用いています。

アリストテレスはこの説明方法を師から受け、ある行為を繰り返す→慣習となる→性格が形成される、という定式を『ニコマコス倫理学』2巻1章(1103a14ff)で披露している。

また倫理学自体が、「政治学に属する」とアリストテレスは考えています。これは本講義の冒頭で紹介した今日の社会科学からの定義の元にもなっている考え方です。すなわち、人間の行為が何らかの「善」を目指すならば、様々な善を目指す技術・専門知識を統括しより大きなレベルでそれを実現するべく努める政治学(術=technê)こそ、倫理学を包括する学問であるとアリストテレスは考えるのです。

→e.g. E.N.1巻2章 1094a20ff、Rhet.1359b10(hê peri ta êthê politikê)

note アリストテレスのêthosに関しては後日もう少し詳しく採り上げます。

アリストテレスの倫理学その1

プラトンにおける学の分類

アリストテレスが倫理学という学問領域を創設したのはこれまで見てきた通りです。彼の先生でアカデメイアの創設者プラトンにも、もちろん今日我々が考える所の倫理学に関わる問題意識はありました。しかしアリストテレスほど独立した分野として倫理学をとらえていません。これは決して彼が倫理学を軽視した訳ではなく、ある意味では彼の学問的営みの全体が倫理学であったからなのです。

こうした事を申し上げますと、『ティマイオス』という対話篇をご存知の方から異論が出るかも知れません。しかし今期の講義では、一般に世界の成立に関すると考えられているこの対話篇ですら、人間に関心の多くが向けれれる事をお話して行きたいと思います。

人間の生活を三種に分類

人間の生き方を三種に分類した最も古いと思われるのは、ピュタゴラス派に由来するものです。ピュタゴラスとは三角形の定理で知られるあのピュタゴラスです。ピュタゴラス自身は実在したかどうかについて論議がある謎の人物です。ですからピュタゴラスの定理についても、彼が発見したものかどうかは不明なのです。しかし「哲学(フィロソフィア)」という言葉を初めて使ったのはピュタゴラスだという伝承もあります。

ピュタゴラス派というのは今で言う新興宗教で、教義は派外の者に話してはならない決まりがあったのです。とはいえ今日我々がピュタゴラスの定理を知っている事からも分かるように、その決まりは守られませんでした。また信者が発見した事も、教祖のピュタゴラスが発見したとされたようで、この事は他の宗教でも良く見られる事です。

キリスト教でもイエスが語った事を元にはしているものの、後の世に信者たちの間で語られ伝わった事の方が、我々には馴染みの教えであったりします。クリスマスが冬至の祭りに起源を持っている事や、イースターが春分の祭りであったりするのは有名な事実ですね。

note ピュタゴラス派について

さて、肝心の三種類の生です。ピュタゴラス派に次のような話があったようです。祭りには多くの人が集まるが、その人々は三種類に分けられます。一つは祭と共に催される競技会に出場して賞を得ようとする人々です。また祭りに集まる人々に物を売って金儲けをしようとする人々もいます。対して第三の人々は、ただ何がどのように行われているかを見物するためにやって来ています。

人間にもこれと同様に、ある者は名誉の奴隷となり、ある者は金銭の奴隷となります。しかし少数の者は、ものの自然のあり方を見る事に熱心です。この者が「知を愛する者=哲学者」だと言うのです。

note キケロ『トゥスクルム荘論談』5.3.8-9

哲学と言うと、難しい議論を振り回す極めて理論性の高いものという印象があります。もちろんそれはそれで誤りはないのだが、一方でピュタゴラスの名の下に伝わる今のたとえ話からも分かるように、哲学は単なる野次馬根性や好奇心に留まらず、知る事を通じて「人がどのように生きてゆくか」に関わって行くものなのです。すなわち知る事が生活に付随するのではなく、生活が知る事に付随すると言ったら良いでしょうか。知る事を求め、それを名誉や金品よりも大事にする生き方と直結するのが「哲学=愛知」の特質なのです。

ですから、理論的な面と同じ、あるいはそれ以上に「生き方」を問題にする事こそ愛知にとって重大な課題と言って良いでしょう。そして「生き方」を問題にする愛知の分野を、倫理学と言うのです。

もちろんここで、人生において最も大切にし、追い求めるべきものは何か、という問題は残ります。知を最も大切であるとする愛知者=哲学者は、もちろん知恵こそ最も価値があると主張します。全生涯をかけて知を追い求める、そうした生を皆に勧めます。古代からそうした「哲学の勧め」というものは、ポピュラーな著作ジャンルになっています。多くの哲学者は自分なりの仕方で「哲学の勧め」を書き残しています。

科学と、哲学の部門としての倫理学

ここでは哲学の一部門としての倫理学を、科学と対照させてその定義を考えてみましょう。

先ず第一に前提への態度が違います。哲学が前提となる原理を考察の対象とするのに対して、科学そのものは前提を扱いません。扱わないだけでなく時として無自覚とさえ言えます。こうした点をとらえて、哲学は前提を疑い問題とし、科学の基礎付けを行うと考える立場もあるます。

さらに初回のガイダンスでもお話したように、「科学」は「分科」学の名から分かるように対象の「部分」を扱います。対して哲学は「全体」を扱います。科学は全体から切り取った(abstruct=抽出、抽象)一分科という細分化され専門化した対象に集中します。哲学は、たとえばアリストテレスが『形而上学』で表明しているように「存在としての存在」(on hê on)を扱うのです。彼にとってはあらゆる知的探求が「哲学」の名の下に位置付けられますので、特に「存在としての存在」を扱う学問・探求を「第一哲学」(prôtê philosophia)と呼んで区別しています。こうした違いを「分析」と「総合」という表現でまとめる事も出来るかも知れません。

また、科学は「事実」を扱い「価値」からは距離を置いている点も挙げられるかも知れません。最近良く指摘される事ですが、科学者が核兵器を開発する際、彼らはその使用が「善い」か「悪い」かという正に「価値」に関わる問題を、当面脇に置いて研究・開発に当たります。現代の科学者がDNA操作でクローンを作ろう等という場合も同じです。なぜ彼らがそんな大事な問題を脇において置けるか、疑問に思う方もあるかも知れません。

科学者にとっては、今あるものより新しく作られるものの方が「より良い」という「世の中は段々進歩してゆく」という信念があるものと考えられます。この「進歩は良い」というのは、「信念」であると同時に「前提」です。従って彼らはこれを問題にしませんし、疑いもしません。その上良い・悪いは「価値」の判断ですから、二重に科学の埒外(らちがい)であるとして、科学の問題外だという事になります。

新しい技術は、「選択の幅」を広げてはくれますが、その出現によって「無条件に」善が得られる事を保証しないのは、ちょっと考えれば分かる事でしょう。その簡単な事さえ「分けて」しまうからこそ科学は目を見張る「進歩」をこれまで遂げてきたと思われます。

最後に挙げる相違点は、「知る」仕方です。科学は(当然の事とお思いでしょうが)「客観的」知を得ようとします。誰がやっても同じ結果が得られる再現性を大事にします。「客観的」に知るという際に、そこに知る人(主体=subject)は介在しません。主体は「傍観者」として事実を観察し、知る知識とは無関係である事になります。

もっともこの点は古典的な「科学」にだけ当てはまる話であって、現代の「科学」では観察者と事象との関係を抜きにして語れない、となっていることをご存知の方もあるでしょう。ここではとりあえずその点は置いておきます。

対して哲学は主体的知を問題にします。知る主体である「私」が何かを知ることによって、知る以前の私は変わり違う私になります。知ったことによって私の行動・生き方が変わってくる、そうした知を哲学は求めているのだとも言えるでしょう。最初に挙げた生き方に関わるというのはこうした意味です。

note 以上の問題に関してはプラトンの『国家』(岩波文庫)509D-511E(文庫では下巻の86から92ページ)を参照。

小ソクラテス学派

快楽主義のキュレネ派の祖であるアリスティッポス、禁欲主義のキュニコス派はアンティステネスや「犬のディオゲネス」が知られている。

論理的な側面に重きを置いたメガラ派には、エウクレイデスさらにはスティルポンが、プラトンの対話篇にも登場するパイドンに始まるエリス派ではメネデモスの名が知られている。

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©SAITO Toshiyuki