西洋思想の源流から見る倫理学

人間の行動と世界観

倫理が人間の行動、もっと広い意味で言うならば「生き方」を扱うとするならば、世界がどうなっているか、世界の始まりは何か、世界は何から出来ているか、世界について我々は何を知る事ができるかといった問題は、哲学の中で存在論とか認識論という区分に属する問題につながる問いとなります。

人間の行動や生き方を考える際には、対象は個人に留まらず社会全体と個人の関わりが問題になります。「倫理」は前回お話をしたように、社会における規範・ルールの一つの形態です。しかしそれは法律とは違って国家による強制力をともなわず、内的な良心や習慣をもとにしていました。

世界がどうなっているのか、世界について我々は何を知ることが出来るのか、といった存在論や認識論、さらには我々が暮らす社会・国家のあり方と、「私」の生き方や行動との間には密接な関係があります。その関係を我々に気付かせてくれるのが、古代ギリシアの思想家たちの「コスモス」観であると言えると思われます。

初回のガイダンスでも予告・概観しましたが、彼らは世界(この世の中にある全てという意味で、宇宙とか万物と言った方が良いかも知れません)を、規律と秩序を備えたものと考えていました。そして同じく我々の「心」(それを持つものを生きているという意味で、「生命原理」「魂」「霊魂」「心魂」と呼び変えても良いかも知れません)も一定の規律と秩序を備えていると考えました。


「秩序」の事をギリシア語でkosmosと言います。コスモスは秩序の他、装飾、飾りを意味する言葉です。秩序だっている事から、ピタゴラス以来、宇宙を指してコスモスと呼ぶ用法もあります。

宇宙をコスモスと呼ぶのと並んで、ギリシアでは「人間」を「小さなコスモス=micro kosmos、ミクロ・コスモス」と多くの哲学者が呼んでいます。これは人間の内で先に挙げた「魂」の有する秩序を指しているとも解されます。

note 哲学者によっては肉体の有機的秩序を指してコスモスと見る者「も」いると考えらます。

宇宙と我々の内なる魂が共にコスモスであるならば、両者に何らかの相似性があると彼らが考えても不思議ではありません。我々の行動が内なるミクロ・コスモスに関わる(もっとはっきり言えば、魂=ミクロ・コスモスによって我々の行動が律せられる)のであれば、この内なるコスモスのあり方を知ることは重大な意味を持ってきます。しかし内なるコスモスは目には見えません。その際、外なる目に見えるマクロ・コスモスを観察し考察するという方法が有効になってきます。

社会すなわちギリシア人にとってのポリス=国家も、コスモスと直接呼び指される事こそありませんが、我々の内なるコスモスと類比関係にあるとプラトンという哲学者は考えていました。彼の『国家』という題名の付いた著作は、内なる「正義」を明らかにしようとして、より容易なる道として国家における正義を先ずもって探求します。大きく書かれた文字と小さな文字の関係で彼は両者を例えています(Res.368D-9A)。そのタイトルにも関わらず、この著作で明らかにしようとしているのは人間の正義なのです。

ヘシオドスの求めた世界の始まり

『神統記』と『仕事と日々』の作者として知られるギリシアの叙事詩詩人に、ヘシオドスという男がいます。『神統記』はギリシア神話の神々についてその系譜を語った詩です。『仕事と日々』は労働の大切さを説いた、説教に満ちた詩です。ギリシア神話というものは、何か一つの定本というものはなく、人々の間で長い期間に渡って語り継がれてきた、様々なお話の集合体で成り立っています。ですから今日残っている作品ごとに細部で異なった解釈が行われています。

note  ヘシオドスについてもご覧下さい

ヘシオドスは、ホメロスが伝説の人であり、詩人自らについては何も語っていないのに対して、自らについて詩の中で自分の置かれた境遇を語っています。彼は小アジアで貿易に従事していましたが、失敗してギリシア本土のボイオティア地方にあるアスクラ村に移ってきました。そこは聖なる山へリコンの麓で、羊の世話をしている時に詩の女神「ムーサ」(9柱のミューズたち=ムーサイ)の声を聴き詩人となります。またカルキスで行われた詩歌のコンテストで優勝もしました。

note 身の回りのギリシア・ローマ神話

彼の詩は『神統記』も『仕事と日々』も共に詩の女神たち(ムーサイ)への祈りから始まります。『神統記』では羊飼いであった自分に、歌を教えたのはゼウスの娘であるムーサイ(ムーサ達)であると明言しています。人間の身であるヘシオドスに、神々の有する真実をムーサイが吹き込み(enepneusan=inspire、31行目)、歌わせているのです。

『仕事と日々』(岩波文庫のタイトルは『仕事と日』となっていますが、原題は「日」が複数形です)では、「ムーサイよ、語れ」(mousai...aoidêsi、冒頭の第1行目)と呼びかけています。

すなわち彼の歌(詩)は、全てを完全に知る神々の言葉なのです。神の言葉に質問や批判は許されません。そうしたものが許され、意味があるのは不確かな人間の発した言葉に対してだけです。ですからどれ程、彼の語る神の言葉が真実であろうとも、それをもって人間の営みとの接点とはし難いのです。彼が取り分け、世界の始まりについて言及している事から、彼をもってヨーロッパにおける知的探求の草分け、と見なす見解もありますが、ここでは次に述べる人々との対比から、彼の中に世界の始まりについての問題意識があったことは認めるものの、人間による「知的探求心」の先駆けとは考え難いと述べるに留まります。

note 数年前に学習院大学の上級古典ギリシア語を私が担当した際のテキストに、ヘシオドスを選びました。一部ですが、私の試訳を読めるようにしておきます。

『神統記』(内容・形式共に未整備で56KB程あります)

『仕事と日々』(途中までの試訳で23KB程あります)

ご自分で原典を読まれる際には、M.L.Westによる注釈付き校訂本が参考になるでしょう。

Hesiod, Theogony, Edited with Prolegomena and Commentary by M.L.West, Oxford, 1966

Hesiod, Works and Days, Edited with Prolegomena and Commentary by M.L.West, Oxford, 1978

Hesiod's Works and Days, A translation and Commentary for the social sciences, by David W.Tandy and Walter C. Neale, Berkeley and Los Angeles, 1996

A Commentary on Hesiod, Works and Days, vv.1-382, by W.J.Verdenius, Leiden, 1985

学問の始まり

今日多くの哲学史を見ると、古代ギリシアの哲学は小アジアのイオニアに始まるとされています。その中でもタレースが最初の哲学者とされ、彼が「万物の根源は水である」と言った、という記述が見つけられると思います。

この伝統はアリストテレスの『形而上学』にまでさかのぼるものです。また彼らの活動をもって、フィロソフィアの始まりと考える点については、もう少し考察が必要かも知れません。彼らの「知的探求心」は、今日から見ると、哲学的と言うよりも科学的と言った方が適切だとも考えられるからです。もちろん当時はそれらをも含めてフィロソフィアと呼び習わしていたのではありますが、それを承知の上で彼らを「ヨーロッパにおける科学的探究方法の創始者たち」と呼ぶ事は、より正確で適切ではないかとここでは考えます。

タレースにしてもアリストテレスが指摘する「水」という彼の(これは推測ですが)叫びより、むしろ他の様々な今日我々が言うところの「科学」に関わる業績(その多くは伝承のみではありますが)こそ、彼の仕事の大部分を占めていたと容易に推測されるからです。

note  ミレトスの哲学を参照

彼らミレトス派の哲学者達が得た知見、あるいは彼らの知を愛し求める=哲学という世界の探求方法が、果たしてどれ程彼らの行動・生き方に反映されていたかは想像の域を出ません。彼らをアリストテレスの呼ぶ「自然について語る者たち(physiologoi)」と総括するのは、極めて真っ当なのかも知れません。

しかし彼らの関心が教科書的に、自然にだけ向いていたと断言するのも偏っていると思われます。タレースはあらゆるものに魂があり、世界は神々に満ちていると語っていました。この記述は、魂や命への関心が彼において重大であった事を窺わせます。

またアナクシマンドロスには、人間の生成に関する断片が残っています(A10,30)。そこでは人間だけが生まれてすぐには自活できず、長期にわたる養育を必要とする点を挙げています。こうした人間の特殊性に気付いた彼に、「無限なるもの」から生じる宇宙・世界の中で、ひとり特別であると考えられた人間への関心が無かった、と考える方が無理があるようにも思われるのです。

さらにアナクシメネスの「空気」は命の元である魂の役割も担っていたのです(時に神とも呼ばれるcf.A10)。彼の考える空気が、我々を「統括するように包む」という断片(B2)は、空気が無機質な運動を人間に与えるだけでなく、我々を生かし、有機すなわち組織付けている原理となっている点に着目する時、やはり彼の関心も、自然だけに向けられていたと断言するのは、いささか乱暴な気がしてきます。

note 断片2「空気である我々の魂が我々を統括するように包むように(hoion hê psychê, phêsin, pneuma kai aêr sygkrateî hêmas,)、宇宙の全体を息と空気<空気と息は同義語と言われているのであるから>が包んでいる、と彼は言っている。(kai holon ton kosmon pneuma kai aêr periechei, legetai de synônymôs aêr kai pneuma)」

人間の行動とポリス

古代ギリシア人はポリスと呼ばれる小さな「国家」に暮らしていました。ポリスは彼らにとって我々の国家以上に重要な意味を持っていました。厳しい外界から身を守ってくれるポリスのルール、法は絶対でした。法を無視することはポリスの崩壊を意味し、ポリスが崩壊すれば、彼らには奴隷となる憂き目が待っていたのです。

彼らギリシア人たちの周辺にはギリシア語を話さないがゆえに彼らが「バルバロイ」と名付けた人々が住んでいました。英語で野蛮人を意味するbarbarianは、元々は「非ギリシア人」を意味していました。「バルバル」というのは恐らくセム・ハム語族の言語が、印欧語を使う彼らギリシア人たちにそのように聞こえたのでしょう。

政治学と倫理学

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の1巻を、「技術や探求だけでなく、人間の行い(=行為)や選択も、何らかの善を求めている」と始めます。求めているものをそれらの目的(telos)、と言い換えることが出来ます。行為(この場合は活動=energeia)には、行為それ自体が目的になっているものと、行為以外の何らかの結果(erga tina)が目的になっているものとがあります。後者の場合には、行為よりも目的の方が「より善い(beltiô)」事になっています(pephyke)。

行為には別の或る行為に従属する行為というものがあります。彼が挙げているのは「馬具製作術」などは「騎馬術」の下に従属し、「騎馬術」やその他の戦に関わる行為は更に「統帥術」の下に従属する例です。

このように他の諸々の行為や技術を統括する(arhchitektonikê)行為や技術の目的の方が、個々の行為や技術の目的よりも、「より望まれるべき(hairhetôtera)」だと考えています。

そしてこの、望まれるものである善の系列を突き詰めてゆけば、最後には「最高善」に辿り着かねばならないと彼は考えます。何せ「無限に(eis apeirhon)」目的が後退してゆくという事態は、認められなかったのですから。彼にとって目的が「無限に」後退するならば、それを追い求める事も空虚ではかなく(kenên kai mataian)なると思われたからです。

このように考えた上で彼は、他の技術に上に立つ統括的技術としての「政治(の技術)(hê politikê)」を挙げています。ポリスにおいてどんな学問が必要か、各人が何をどこまで学ぶべきかを決めるのは政治であとします。さらに何をすべきで何を避けるべきかを立法するのも政治の仕事であるので、結局人間の善を最大限に実現するのは政治であるという考えに至っています。

こうした意味で、彼の倫理学は政治学の一部となります(-1094b10)。そしてこの事は『ニコマコス倫理学』の最後からも分かります。「さあ、語り始めよう(1181b23)」という言葉で終わるのですから。

参考文献

廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫)

プラトン『国家』(岩波文庫)

アリストテレス『ニコマコス倫理学』、『政治学』(共に岩波文庫)

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©SAITO Toshiyuki