西洋思想の源流から見る倫理学

ソクラテスからの触発

ソクラテスがいなかったならば、あるいは彼と出会わなかったならば、哲学者プラトンは生まれなかったと思われます。この事はプラトン自身も認めているように思われます。彼は名門の子弟としての教育を受け、詩や劇を書き、将来は政治を一生の仕事としようと考えていた鋭敏な青年でした(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』3.1.1)。そんな彼がソクラテスと出会ったのです。プラトンはこれまで書き溜めてきた詩作を焼き捨て、師ソクラテスに夢中になりました。魂の転向とはそうした事を言うのでしょう(同3.1.5。但しこれは作り話であろう)。

またプラトンがソクラテス生きている間に書いたと推測される著作(初期対話篇とかソクラテス的対話篇と言われる)は、ソクラテスが主人公として登場しこれまた実在の人物を相手に「問答法」によって互いの魂を吟味し合い、無知をそこから取り除き、更なる思索への激励で終わる、という形式を取っています。

ソクラテスの「魂への信頼」の思想と、「〜とは何であるか」の問いかけが、特に若きプラトンの心をとらえたと考えられます。

ソクラテスが対話相手に「〜とは何か」と質問をする際に、彼が求めている答えをプラトンは、「まさに〜であるもの」であると考えました。これは「〜の一々の実例」ではなく、それら「〜の一々の実例」が「〜」である原因となっているものでなければならないと考えたのです。

美とは何か」と問うソクラテスに、「美しい乙女」(『ヒッピアス(大)』287E)であるとか「美しい牝馬」(同288b-c)と答えたのでは彼は満足しません。彼が求めていたのは、「他のものが、それによって飾られ(kosmeitai)、その種のもの(ekeino to eidos)が付け加わることによって、美しく見えるものである、美そのもの」(同289D)をソクラテスは求めていたと理解したのです。

こうした「美そのもの」は見る人、時間、場所、他との比較などによっても変わる事のない、永遠で絶対的な「美」なのです。それをプラトンは「美のイデア」と呼ぶことになります。

イデア〜その逆転した発想〜

イデア論と世に言われる割には「イデア」という表現はそれ程多く使われていません。それに代わって「美そのもの(auto to kalon)」「美のエイドス(eidos tou kalou)」といった表現の方が一般的です。

英語では、Plato's Theory of Ideasと表記する事が多かったのですが、Ideasでは「概念」「観念」と混同される恐れがあります。そこで代わってTheory of Formsという表わし方を好む人が増えているようです。

Formすなわちeidos=エイドスとは、「見る」とか「知る」という意味の動詞である「eidô(エイドー)」から作られた名詞で、元々は物の姿や形を指す言葉です。物を作る材料=素材、質料(hylê=ヒューレー)に対するものとしての、物の形を「形相(ぎょうそう、ではなく、けいそう、と読む)」と言います。

特にプラトンがイデアという意味でこのeidosを使う場合に、「形相」という訳語が一般に使われます。また「実在」(Ousiâ=ウーシアー)とか「真実」(Alêtheia=アレーテイア)さらには単に「ある」(on=オン)と呼ぶ事もあります。

こうした「術語」の非固定化は、プラトンによって意図的に行われたと考えられます。その目的は彼が構築しようとしたのが哲学の体系ではなく、出発点であるソクラテスの行った魂の吟味であったからではないかと思われます。

イデアと「概念」「観念」では、似ている面もあります。それらは共に「目で見る事」や「手で触れる」事が出来ません。感覚でとらえられるものどもが、生成・変化しいかなる時にも同じありさまを保ってはいないのに対して、それらは生成も変化もせず常に同じあり方をしています。またそれらは欠ける所のない理想でもあります。

数学で扱う図形は、紙の上に書かれた曲ったり切れたりしている図形ではありません。それらの「概念」を数学者は論じているのです。その際彼らは不完全でいつかは消えてしまう図形を補助的に用いて「概念」の方を問題にします。そして彼らが問題にするような「概念」を、我々は目に見え、手で触れられる具体的な個々の物を抽象化することによって得られると考えます。

例えば「平和」という概念は、あれやこれやの具体的な戦争や平和が先ずもってあって、その後にそれらを元にして人が作り上げます。

しかしプラトンの主張するイデアでは、その成立の順序は逆です。イデアが先ず在って、それらに基づいて個々の具体的事物が生まれると彼は主張します。数学の対象についても彼は、数学者の扱う「対象」の方が在って、それを扱うための補助手段として、紙などの上に図などを書くのだと主張します。

参照 プラトン『国家』(509D-511E)参照「線分の比喩

同様にして、「美しさのイデア」や「正しさのイデア」(そして我々の例に従うならば「平和のイデア」)が先にあって、それらに基づいて、この世界にある個々の具体的事物が存するのだと、プラトンは考えます。

イデア〜内在と超越〜

今見てきたように、プラトンのイデアは「〜とは何であるか」の問いかけに答えるものとして生まれました。〜のイデアは個々の具体的物とは異なり、それらに先立って存するものでした。

さらにイデアは個々の事物に「内在」すると共に、それらを「超越」しています。有名なラファエロの描いた「アテナイの学堂」では、プラトンが左手の指を天に向かって上げています。これはイデアがこの世界にではなく「かしこ」に存する事を意味しています。すなわちイデアはこの世界を「超越した」ものであるのです。

しかし感覚の対象ではないイデアについて、その在りかをこの世界の事物と同じ意味で場所の中に探す事は誤っています。イデアは「天」の彼方にあると言うのは、比喩としては正しい表現ですが、そのままの意味では誤っています。文字通りにイデアが天の彼方にあるなどとプラトンは考えてはいません。

これまた比喩として考えるべきですが、イデアは個々の「事物の内に」すなわち「内在」しているとも語られます。ですからプラトンが個々の事物がイデアを持っていると言っても、場所の中にはないイデアですから、「内在」すると共に「超越」していると考えるべきでしょう。

イデア〜行為の基準〜

我々の行動はイデアとの関係において、どの様な振る舞いをするのでしょうか。イデアは「この世界=感覚で捉えられる世界(=感性界とも言われます)」の事物が、それと照らし合わされる事によって、同じ名前を持ったものとされる基準でもあります。すなわち、美のイデアを基準として、それに似ている事物がこの感性界において美しいものとされるのです。

プラトンはそうした基準の事を「Paradeigma=パラデイグマ、範型(はんけい)とか見本」と呼びます。先に挙げたイデアと個物の前後関係も、このパラデイグマとその写しの関係としてとらえるならば、個物が先立つ「概念」とは異なる事がはっきりしてくるでしょう。

こうしたイデアども(複数あるのでそう呼んでおきます)を元にしてこの世界が出来ているとするならば、この世界について真実を知ろうと欲する者(愛知者=哲学者)は、イデアをこそ知らなければなりません。プラトンにとって「知識」(Epistêmê)とは、イデアどもを知ることであったのです。

先に挙げた「線分の比喩」でdialektikê=ディアレクティケー(ソクラテスの問答法はここに至って、彼の哲学の方法として完成します)とされた方法が、イデアを知るための方法とされます。

それでは、こうしたイデア論は人間の行為にどのような作用をもたらす事になるのでしょうか。言うまでもなく、我々が善き生を願うのであるならば、何が善いかを知らなければなりません。プラトンに依ればそれはイデアを知る事に他なりません。彼が語る「洞窟の比喩」(『国家』514A-518B)の表現を使えば、洞窟の壁面から目を反対に転じ、出口へと歩み、外界のイデアを直に見尽くす事こそがそれに当たります。いったん真実を見た後には、「似せられたもの」からの想像によって、ただぼんやりとあるようなないような感性界にまみれのた打ち回る事なく、真実の基準に照らし合わせてこの世界を見る事こそが、究極の目標になります。


線分の比喩

プラトン『国家』(509D-511E)

一つの線分(A―B)を(Cで)二分して、それぞれの部分をさらに二分します。(仮に左から順に説明すると、最も左の部分(A―D)は影(skia)や水面に映る像(phantasma)などの似像(eikôn=エイコーン)の領域です。その右隣りの部分(D―C)は、我々の周囲にある動植物や人工物といった、似像の元となっているものです。

これらの領域のものども(A―C)は、「眼でとらえられるもの(=horaton)」と呼ばれますが、その他の感覚を通じて手に入るものどもを考えています。(509D-510A)

線分の例示

C-Bについて

これらに対して、線分の右半分(C―B)は「知性によってとらえられるもの(=noêton)」と呼ばれます。それらのうちの左の部分(C―E)は、「D―Cを似像として用いながら、前提(仮説=hypothesis)から出発して、始原(archê)へではなく結末(teleutê)へと進みながら探求する事を強いられる」

「それに対してもう一方(E―B)は、前提から出発して、(それ以上の)前提のない始原へと向かい、前の場合(C―E)に使われた似像と使わずに、形相それ自体によって形相を通じて進めてゆく(autois eidesi di' autôn tên methodon poioumenê)。」(510B4-9)

C-Eについて

幾何学や算術では、図形やさまざまな角、奇数や偶数を、既に知られているものとして、前提し(仮説として立て)てそこから出発してそれに続く事柄を探求してゆく。またその際には、目に見えるたぐいのものどもを補助として用いて、論じるのだ。その際彼らが考えているのは(dianooumenoi)、自分たちで描いたそうした目に見える図形ではなく、そうした図形が似ている所の元のものなのだ。図形自体は(上記D-Cに属する)似像の元のものであるが、それらをさらに似像として用いて、思考(dianoia)によってだけ「見る事(idein)」の出来るものを見ようと努めているのだ。(510C1-511A2)

魂は探求に際して、前提(仮説)を用い、前提のさらに上へと昇る事が出来ないかのようにして、始原にまでは行かないのだ。(-511A6)

E-Bについて

ロゴスそれ自身がディアレクティケーの力によって把握するもので、前提(hypothesis)を始原とせず、文字通り「下に(hypo)」「置かれたもの(thesis)」として、いわば踏み板(epibasis)やスタートライン(hormê)として用い、万物の始原である前提ではないもの(anypothetos)にまで至る。(-511B7)

始原に触れると今度は逆に、始原に連なるものどもに触れ、結末にまで降りてゆく。その際に感覚を通じて手に入るものどもを一切補助として用いず、形相(eidos)それ自身によって形相を通じて形相へと至り、形相に終わるのだ。(-511C2)

魂の状態の名称

E-Bを知る状態には「直知・知性」(noêsis)、C-Eには「推論・学問知」(dianoia)、D-Cには「信念」(pistis)、A-Dには「映像知覚」(eikasiâ)を充てる。

さらにこうした状態は右から順に、対象とするものが真実に与っているのに応じて、明証性に与っているのだ。(-511E5)

洞窟の比喩

プラトン『国家』(514A-518B)

我々の現状

地下にある洞窟のような住まいにいる人間というたとえ(比喩)。そこで人間たちは子供の時からずっと手足も首も縛られていて、洞窟の奥の壁だけを見ている。首を回す事も出来ない。彼らの背後には火が燃えていて、その手前に低い壁状のものがあり影絵の人形のようなものが声と共に動かされている。

彼らは目の前の壁に映された「影」以外の姿を見たことがないので、「影」こそが真実のものであると信じて疑わない。音さえ彼らの前の壁に反響して前から聞こえてくるのだから尚更である。(-515C3)

無知からの癒し(iasis...tês aphrosynês)

そうした彼らの内の一人が縛りを解かれて、首を回して火の光の方を見るように強制されると、明るさに目がくらんで良く見ることが出来ない。彼が出口に向かって進み、影の元になっている実物の一つずつを指し示して説明しても、影の方がより真実であると考える。

さらに直接火の光を見ると目が痛くなって元いた場所に逃げ帰えろうとする。さらに強制して洞窟の外、太陽の光の下へ引っ張り出そうとするのにも抵抗する。しかし光に満たされた目では、何一つとして見えない。そこではじめは影や水面に映る映像を見て目を慣らし、その後に夜の星を見て、その後に昼間の日の光の下で地上のものどもを見る。そして最後に光の元である太陽それ自体を見る。(-516B8)

再び洞窟へ

地上の実物を知った彼は、地下の仲間の許では価値があると思われていたものどもへの関心を失う。また仲間を捕われの身から開放しようとするかもしれない。

『パイドロス』での魂とイデア

教室でお話した『パイドロス』での魂の輪廻転生と、イデア、想起説については次回にも関わりますので、復習しておいて下さい。

翼を持った一組の馬と、手綱をとる翼を持った馭者

神の場合は三者とも善き者だが、人間の場合、一方の馬の資質と血筋は悪い。(246A-B)

(神の)完全な魂は、天高く駆け上り天球の外側に立ち、イデアを全て観照する。(-247E)

人間たちの魂のうち最も神に似たものの魂は、馭者の頭を天球の外に揚げ、馬たちに煩わされながらも辛うじてイデアどもを観照する。しかし馬が暴れてイデアの全てを見る事の出来ない者もいる。さらには天球に達する前に翼が折れ地上に落ちてゆく者たちもある。イデアを見た度合いに応じて、次の生が割り当てられてゆく。(-248E)

人の魂はこの世界での生を終えた後、裁きを受け生前にした事に応じて地下での償いや天上での暮らしを送る。その期間は、この世での生を含めて1000年である。その後次の生を自らの意志で選ぶのである。これを10回繰り返し10000年が経つと、魂は天上の神々の許へ帰って行く。しかし続けて3度知を愛し、愛に生きた魂は3000年目にして天へと戻る事が出来ると語られる。(-249B)

魂が一度もイデアを見たことが無いならば、その魂は人間に生まれ変わる事がない。人間のものを知る働きは、イデアに即して行われるからである。

それは多くの感覚から、思考の力によって、統合された一なるものへと進み出る(249B7-C1)。

しかしイデアを想い出すについて『パイドロス』では、美のイデアの輝きと、それに似たものの持つ人を惹き付ける力を挙げているのみである。しかし、ソクラテスの弟子であったプラトンにしてみれば、ディアレクティケーの力によって魂から誤った思い込みを取り除き、より善きものにする事を通じてなされるのではないだろうか。

斎藤忍随『プラトン』(岩波新書)

藤沢令夫『プラトンの哲学』(岩波新書)

R.S.ブラック『プラトン入門』(岩波文庫)

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©SAITO Toshiyuki