西洋思想の源流から見る倫理学

彩られた柱廊

ゼノンがアテナイのストア・ポイキレー(stoa poikilê=彩られた柱廊)で講義を始めた事から名付けられたこの学派を特徴付けるのは、禁欲主義以上に唯物論であると考えられます。ゼノン、クレアンテス、クリュシッポス(順に師弟関係にある)といった紀元前3世紀の哲学者達による思想を「初期ストア哲学」と呼びます。

彼らの著作は今日残ってはいません。ただ後世の学者達の書物の中に「断片」と呼ばれる形で、引用された切れ端を見る事が出来るだけです。そうした引用の少なからぬ分量は、ストア派の思想を批判する立場から書かれたものである事に注意しなければなりません。

キュニコス派

ゼノンはキュニコス派のクラテス、メガラ派のスティルポン、アカデメイアの学頭クセノクラテス、ポレモンし師事しました。「アパテイア=apatheia、情欲からの解放」という彼らの有名な理想はキュニコス派から恐らく得たものと思われます。

キュニコス派はソクラテスの友人であったアンティステネスに始まります。彼はソクラテスから禁欲的な面で大いに影響を受けました。彼らは「自然に一致した生活=bios kata physin」こそ徳であると考え、それ以外は単なる「typhos=迷い」としました。彼らは物質的豊かさをこの「迷い」に過ぎないと考え、裸足でボロをまとい家財道具は頭陀袋一つにまとめる生活を理想と考え実践しました。

最も有名なキュニコス派の哲学者は、アンティステネスの弟子でシノペ出身のキュニコス(=犬)のディオゲネスです。彼は足が弱かったので頭陀袋の他に杖を突いていたと言われています。彼の弟子がクラテスで、更にクラテスの弟子がストア派の創始者、ゼノンになります。

学問の分類

ストア派は学問を論理学、自然学、倫理学に三分します。論理学は形式論理の他、文法学や知識論を含んでいます。

ストアの自然学

自然学の部面でストア派は、唯物論(世界は全て物質=sômaから成っている)の立場を取ります。しかし物質と言っても元になるのは、自ら変化・運動する「形成する火(pyr technikon)」あるいは「火的気息(pneuma pyroeides)」と呼ばれる有機体です。

したがって唯物論と言っても、彼らの「原理」は「自ら動く」物であって、アリストテレスの言った「アイテール」から出来ている「物」です。「アイテール」は「物」でありながら、極めて希薄であるために同時に二つの「物」が同じ場所を占める事が出来て、「物体」が「物体」を通り抜ける事の出来るような「物」なのです(こうした事を「通全融合=つうぜんゆうごう」と言います)。

アリストテレスの考える「質料」と「形相」の両者も、ストア派にとっては「物質」なのですが、「通全融合」する事によって、質料(=作用を受けるもの=to paschon、ト・パスコン)の中に形相(=作用を与えるもの=to poioun、ト・ポイウーン)が広がり入って行けると考えました。

彼らの「作用を与えるもの」は、物を作りあげ命を与える「火」であり、魂でもあると考えられました。それと同時にそれは宇宙の原理・ロゴスでもあります。ロゴスは神でもあり、「自然=physis=ピュシス」とも言います。

個々の物は「種子的ロゴス」を植え付けられており、それが成長して個体を完成へと導きます。こうした事からロゴスを「形成(する)原理」とも呼びます。

こうしたロゴスによって成長し完成した個体は、無限に繰り返す循環過程の中で最後には「宇宙的大火(=ekpyrosis、エクピュロシス)」を起こして燃え尽きて崩壊し、再び創造される事になります。ストア派にとって宇宙は不滅ではなく、無限の繰り返しなのです。前回の循環においても、このソクラテスと同じソクラテスがいて、同じく裁判にかけられ死刑になっていたのです。

注 エクピュロシスの説は後期ストア派では棄てらました。その中で最もよく知られているのは前2世紀のパナイティオスです。

よってこれから我々に起こる事も、既にこれまでの循環の中で起こっていた事の正確な繰り返しとなります。未来は決まっているのだと彼らは考えました。こうした考えを「決定論」と言います。すると宇宙には進歩も発展もない事になります。なぜならこの宇宙は究極のあり方をしているからです。全ては「運命」によって決まっているのだと彼らは考えました。


自然学に関する若干の断片

ストア派の倫理学

人間の魂は「火的気息=プネウマ・ピュロエイデス」という「物質」であり、この「気息(プネウマ)」は宇宙の隅々まで行き渡っている神のロゴス(ここでは「形成原理」という訳語が適しているでしょう)の一部を成しています。したがって人間は宇宙を支配する原理である「ロゴスにしたがって生きる」のでなければなりません。我々は「運命」である神の「ロゴス」に従わなくてはなりません。

人間の(本来の)魂は部分に分かれてはおらず、一なる理性(知性)であるとされます。欲望や感情は、理性がコントロールすべき劣った活動である「非合理的理性」しかありません。理性が間違った判断を下す時それは非合理的理性に成り下がっているのです。ですから、そうした誤りである「欲望や感情から影響を受けない事=アパテイア(apatheia)」が理想とされます。

彼らは理性以外のものを一切認めず、理性にしたがって生きる事が最善であると説いたのです。そうした理想を実現している人を「賢者(sophos)」と言います。賢者は理性にしたがって生きることによって、自然にしたがって生きる事が出来るのです。

またストア派と言うと、有名な「自殺」を積極的に肯定したという説を聞いた事がある人もあるかも知れません。しかし自殺が許されるのは、めったに生じない「賢者」だけです。凡人の自殺は肯定されません。誤解なきように。


倫理学に関する若干の断片

質問

講義終了後寄せられた質問に次のようなものがありました。

ストア派にとってこの宇宙は究極のあり方をしていてるに、人間の魂の中には遠ざけるべき部分があるのは何故でしょうか。人間の魂もこの宇宙と同じロゴスに基づいて成立しているのですから、遠ざけるべきものは、何に由来して我々の魂にあるのかというものでした。

感情や欲望に関わる魂の避けるべき部分を、プラトニスト(Platonist=プラトン派の人々)なら魂が肉体(物体)の中に入る事によって生じると説明するでしょう。アリストテレスならば、善が欠けている事(欠如=sterêsis、ステレーシス)によって説明するでしょう。

ストア派では、確かに人間の魂は完成された神的宇宙に由来します。宇宙が究極と言うのは、それが完成された存在だからです。しかしそこに悪が忍び込む余地がないかというと、そんな事はありません。我々にとっての悪と、未完成としての悪とは別のものです。宇宙には未完成という意味での悪はないでしょうが、我々にとってのという意味での悪はあります。

地震や洪水は我々にとっての悪ではありますが、宇宙の中でそれ自体が悪ではないと考えられます。我々の魂にある感情や欲望の部分も、魂と宇宙のつながりを見極めるためには障害となり、それゆえにストア派の人々によって遠ざけるべきものとされます。しかしそれ自体が悪であるのではありません。

またそのような区分を魂に対して行ったからといって、善き部分と悪しき部分という区分を行っている訳ではありません。ただ指導的部分(ト・ヘーゲモニコン)に本来の働きをさせる事が我々にとっての善であるとすれば、それを妨げる部分というものも、我々においては生じてくると考えられるでしょう。

A.H.アームストロング『古代哲学史』(みすず書房)

エミール・ブレイエ『ヘレニズム・ローマの哲学』(筑摩書房)

山本光雄・戸塚七郎『後期ギリシア哲学者資料集』(岩波書店)

J.von Arnim, Stoicorum Veterum Fragmenta(=SVF), Teubner

A.A.Long & D.N.Sedley, Thr Hellenistic philosophers, Cambridge U.P.

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©SAITO Toshiyuki