西洋思想の源流から見る倫理学

『エンネアデス』

プロティノス(Plôtînos)の生涯については、彼の弟子であったポルフィリオス(Porphyrios)による『プロティノスの生涯』によって知ることが出来ます。彼は師の著作を『エンネアデス』(Enneades=enneaとは数字の「9」の事、各6編からなる9グループの著作集、計54編)にまとめました。

これらの論文はプロティノスがローマで行った講義を元にしています。第一エネアスは倫理学的論文、第二、三エネアスは自然について、第四エネアスは魂について、第五エネアスは知性について、第六エネアスは一者について書かれています。

生涯

エジプトで205年に生まれたプロティノスは、アレクサンドリアでアンモニウス・サッカス(Ammonius Saccas)に師事した。サッカスは中期プラトニストと同じくプラトンとアリストテレスを調停できるという思想を持っており、プロティノスにも大きな影響を与えたと想定されています。後に彼はローマに学校を建て、270年に亡くなるまで多くの弟子たちに囲まれていたと伝えられています。

世界の枠組み

プロティノスの思想は極めて体系的です。宇宙は四つの階層に分かれていると考えられます。最も上の階層には「一なるもの(to hen=一者、善)」が位置します。二番目には「知性(nous)」が、三番目には「魂(=psychê)」が、一番下には「自然(=physis)」が位置します。

一者

前回見た中期プラトニストが最高位に置いた知性は、極めて超越性が高く、それゆえに現象界との間に中間の「第二の知性」を必要とする程でしたが、それにも関わらず、知る者と知られる者という二つの側面がありました。プロティノスはそうした複数性を有するものが究極の源であると考える事を拒絶し、その上に「一なる者」を考えたのです。

「一者」は知性を超えており、存在さえも超えています。一者は知性とイデアの源であって、知性やイデア(すなわち存在)ではないのです。

「一者」にはどんな述語を付け加える事も出来ません。述語を付け加えて「一者はある(=存在する)」と語ると、「一者」に複数性(すなわち主語と述語)を付与する事になってしまうからです。全てのものの源である「一者」には、どんな複数性も許されないのです。

すると「一者」は、存在するものでもなく、知性でもない、その他のあらゆる述語付けや規定、限定を拒むもの、としてのみ語られる事になります。この考え方は、後の「否定神学(神についてはいかなる積極的規定も付け加える事も出来ず、〜ではない、〜でもない、という否定的規定によってしか表せないとする考え方)」につながるものでしょう。

善なるもの

ここでは便宜上「一者」という名を使って、プロティノスが最上位とするものを指しますが、もう少し正確に言えば、to hen以外にもto agathon(=善なるもの)、to prôton(第一のもの)、to epekeina(=彼方のもの)、hê archê(源)などと呼ばれる事もあります。

これらの内で積極的に意味を付け加えているのは「善なるもの」という名前です。第一の、知性やイデアの彼方にある、源である一なるものは、源をそれに依っているものどもを、遥かに凌駕し、その超えている程度が甚だしいが故に、我々の思考や言語では捕らえられない完全なものとされるのです。

そうした完全なものを想定する際に、プロティノスが元にしたのはプラトンの善のイデアに他ならないでしょう。しかし「善のイデア」はその他のイデアどもと同じくあくまでイデアであり、それゆえにあるもの=存在でした。しかしプロティノスによれば、「神のごときプラトン」の「真意」は善のイデアを他のイデアどもと同じ階層に置く事ではなく、それらの源としてそれらを超越した所に据える事であったと考えるのです。

善のイデアは前回引用した箇所(『国家』508E)によれば、「イデアを知るものとしての知性に知る力を与え、イデアどもには真理性を与える」すなわち、知性とイデア(=存在)の根拠・源であるとプラトン自身も言っていたのでした。そうした「善のイデア」を知性やイデアと同じ階層に置かないと考えるのが、プラトンの真意であるとプロティノスは考えたのでした。

このように考える事によってプロティノスは、キリスト教的超越神の考え方に極めて接近します。

そして完全なものである「一者」は、完全であるが故に「善なるもの」であるとプラトニストであるプロティノスは考えたのでした。

魂の一者との合一

思考や言語を超えた「一者」を我々はいかにして体得するのでしょうか。我々は文字通りこの世界に身を置きながら「一者」と合一出来ると彼は考えていますし、彼自身は幾度かその合一を果たしたと弟子のポルフィリオスが伝えています。ここから彼に由来する神秘主義が生まれます。

「一者」と合一出来る我々とは何でしょうか。それは第三の階層に位置付けられる、我々の「魂」です。魂は知性の領域から自然にまで広くに関わりを持っています。魂の最上位は知性の世界に位置し、そこに留まっています。反対に「末端(下端)の魂」は、物質の世界にまで力を及ぼしています。

魂の得る知は知性が直接的把握(=noêsis)であるのに対して、時間の中で行われる論証的推論(=dianoia)に依ります。

そのように広い領域をカヴァーする魂ですが、その特色は知性界と感性界(この世界)の両者に渡っているという点でしょう。そしてそうした特色こそ、魂を持つ我々にとっての特色でもあります。

ところが魂が自らと結び付いてる身体に引きずられその言いなりになっていると、もう一段下の「自然」すなわち知性との関わりを持たない階層へと落ちてしまうのです。

魂は知性界に留まる上位の部分をも持つのですから、「真の自己」である知性界に留まっている部分に集中して知性となり、更に上位の一者にまで到達する事が出来るのです。

流出と回帰

宇宙は全て「一者」から産み出されます。「一者」はあらゆる意味で完全ですが、完全なものは「産むもの」であるとプロティノスは考えています。「一者」は力に充ちているので、絶え間なくあふれる「泉(=pêgê)」のように産み続けるというのです。これを「流出(=rhoê、rhysis)」説と言います。

プロティノスはこの比喩と共に、「一者」からの産出を、善のイデアの比喩と同様に太陽と光に喩えています。その比喩でも、産み出されるものは産むものよりも、常に劣っていると彼は考えます。

下位の産み出された劣ったものである我々(の魂)は、観照(=theôria、theôreîn)する事によって上位のものと一体化出来ると考えられています。

プロティノスにおける倫理

徳を実践する事によって、我々(の魂)はより上位の階層へと昇ってゆく事になる。その際、物質の世界に対する彼の態度には解釈の余地があるように思われます。

我々が肉体を持つ事は恥ずべき、あるいは悲しむべき事であって、我々はそこから離れるべく努力せねばならないと考えられています。しかしこうした傾向はプロティノスだけに限ったものではなく、プラトニズム全般に見られる傾向でもあります。

世界「霊」、宇宙「霊」などという訳語は誤解を招くので避けます。hê holê psychê、hê tôn holôn psychêは全体の魂、hai kathekasta psychaiは個々の魂で良いでしょう。

しかしこの物質世界もまた、「一者」に由来する魂が支配し管理するものでもありました。宇宙の魂は物質の世界を秩序付け支配します。また個々の魂は割り当てられた肉体の中にあって、肉体に生命を与え支配します。「一者」の力は魂を通じて自然界にまで及んでいる訳ですから、自然界をことさら忌み嫌う事はないのではないかとも考えられるのです。

しかし我々は肉体の内にあっても、知性、さらには「一者」との合一にまで登りつめることが出来るのですから、肉体から出来る限る離れる事こそ生における最大の目標となるのです。

田中訳編『プロティノス・ポルピュリオス・プロクロス』世界の名著(中央公論社)

A.H.アームストロング『古代哲学史』(みすず書房)

エミール・ブレイエ『ヘレニズム・ローマの哲学』(筑摩書房)

山本・戸塚訳編『後期ギリシア哲学者資料集』(岩波書店)

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前期はここまでです。後期は「倫理学B」という名前で再出発します。内容は要覧に掲載した通り、「倫理学A」とは大いに異なりテーマ別に現代的問題を考えてゆきます。

試験についての告知は講義目次をご覧下さい。



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©SAITO Toshiyuki