倫理の話

宗教篇 目次・序論

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内容目次

2学期はキリスト教からです。以下の目次から各ページをご覧下さい。

  1. ヘブライ思想・ユダヤ教
  2. イエスの生涯
  3. 伝道と教会
  4. イスラムの成立
  5. 古代インドの思想
  6. 仏教
  7. 諸子百家

宗教とは何か

2学期前半の学習は宗教が中心になります。そこでここでは序論として宗教とは何かについてお話しておきます。

宗教とは何かを一言でいえば、「信じること」がその核心にあるでしょう。これまで勉強してきた「哲学=知を愛し求める」とは、真理の追求でした。宗教も同じく真理を求めますが、その追求は自らの「悟り(さとり)」や「救われる」といった事で終わります。哲学はそれ自身が認めているように、終わりがありません。しかし宗教にはちゃんと終わりがあるのです。

何やら哲学はいろいろな人がそれぞれ違う事を主張していて、しかもそれらは皆中途半端で、どれが真理なのか分からなくて嫌だ、という感想を持った人も多かったでしょう。哲学をやればやるほど、心の不安、不満はつのります。しかし宗教ではハッキリと何が真理か示されます。真理が示されて、それを信じる者(信者)は安心します。信(ずる)者が満たされる点に宗教の大きな特徴があるのです。

信じる事の出来る者は救われますが、信じられない者は救われないというのは、実は当たり前なのです。示された「真理」を真理として受け入れられれば、その者は安心して生きて行けます。真理が恐ろしいものであったとしたら、それへの備えを着々と積んでゆけば良いのですから、生活に張りがでます。こうした者を「救われた」と言うからです。

他方、示された真理を信じられなかった者には、こうした救いは決して訪れません。日々、張りも目的もなく、不安にさいなまれて生きてゆきます。

たとえば現在の日本はどうでしょうか。宗教がなくても、先祖伝来の生活のルールがしっかりとあった少し前は、張りも目的もありました(この点に関しては二学期後半にで触れられたらと思います)。ところがそうしたルール(昔からの道徳やシキタリ)から自由になった現代の日本では、自分で自分の目標・目的を見つけなければならなくなりました。

昔でしたら、社会には、それが嫌でも何でもレールがしっかりとひかれていました。ところが現代では自分でひかなければレールはありません。もちろんここでかすかに残った古いレールを探してそこに乗る事も出来ます。しかしそのレールは昔と同じ安心を今や与えてはくれません。

そんな時に絶対の「安心」を保証してくれるものが現れれば、簡単に人は飛びつくものである事は、近年世界中の先進国で見られるカルト教団の流行が証明しています。

信じる内容は様々ですが、それらが理にかなっている必要はありませんし、かえって理に反している事の方が多いものです。信じられない、知ることが出来そうにない事の方が、かえって宗教に権威を与えます。親鸞という昔の偉いお坊さんは「歎異抄」の中で、法然という師の言葉を自分は信じると言い、その結果だまされたとしても自分は後悔しないと明言しています。こうした態度こそ「信じる」というものです。

師の教えの内に非合理的な事があったとしても、それを「も」含めて全てを信じる事が出来なければ、信仰とは言えません。

テルトゥリアヌスというキリスト教の「教父(後で述べます)」には、「私は信じる、なぜならばそれが理に反しているから」という有名な言葉があります。そうした態度こそ本来の「信仰」なのでしょう。

もちろん非合理な事ばかりを宗教は主張するわけではありません。キリスト教では中世の「スコラ哲学」の名の下に信仰と知性の両立を図りました。しかしその際でも、信仰は人間の知性が及ばない範囲についてまで、真理を与えれくれるものであると考えられました。

皆さんの中には、もう少し系統だった定義を求める人があるかも知れません。手許にある小さな辞典(岩波哲学小辞典)には、次のように書かれています。

この上で少し補足しておくと、同書には「信仰」について次のような記述があります。


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©SAITO Toshiyuki