倫理の話

西洋思想篇 その4

原子論

ギリシア北方の僻地アブデラの人デモクリトスは、レウキッポスを師とすると伝えられるが、レウキッポスについては詳しい事は分かっていない。両者は原子論の祖と考えられている。

『ギリシャ哲学者列伝』(岩波文庫、下巻132ページ以降{9巻7章})を見ると、デモクリトスの著作が極めて広範囲に渡るものである事が分かる。しかしその殆んどは失われてしまった。しかし彼が多作であったからといって、世に広く知られる事を彼が好んでいたのではない。

アテナイに行った時、彼の方はソクラテスの事を知っていたが、ソクラテスの方は彼の事を知らなかったと、伝えられている。彼は極めて勤勉で、部屋に閉じこもって著作に励んでいたのであろう、Sophia(知恵)というあだ名があったという伝承がある(デモクリトス断片A2)。

彼らによると、原子(Atoma)と空虚(kenon)からこの世界は成り、原子の形、並び方、向き、大きさによって様々な差異が生じると考えた。それら原子は物質であり、物質によってあらゆるものが出来ているという「唯物論(ゆいぶつろん)」の立場を取る事になる。

注 アトムに大きさがあるというと異様に感じられるかも知れないが、デモクリトスは宇宙大のアトム等というものまで考えていたらしい。

物質の運動は原理的には予測可能であるから、彼らは決定論を支持する事になる。「ああなればこうなる」という物質の運動を、彼らは「必然」すなわち、そうなるより他にはならない運動として「必然=anankê」と呼んでいた。

未来の事は決まっているという決定論は、その後の思想の歴史の中で、人間の自由との関係で大きな論争の元となる。なぜなら宗教を広めようとするものにとって、相手が信者になるかどうかが既に決まっているとしたら、それどころか、自分が救われる事が決まっているとしたら(そして何より救われない事が決まっているとしたら)、布教活動や信仰そのものにとって重大な危機であるからだ。

原子論に関するデモクリトスの断片

「彼の考える所によれば、恒常的なるものどもの本性(ほんせい)は、微小な実体であり、数的に無限である。そしてそれらに対して別に無限に大きな場所を想定している。彼は場所の事を空虚とかあらぬものと呼び、実在の一つ一つをものとか緻密なもの、あるものと呼んだ。彼の考えでは実在は我々の感覚ではとらえられない程に小さいのである。(略)大きさもまちまちである。」(A37)

「彼は充実体と空虚を始原とし、一方をあるもの、他方をあらぬものと呼んだ。すなわち彼らは存在物の素材として分割できないもの(アトム)を想定し、それ以外のものをアトムの様々な違いによって生み出されるとしているのである。それらには形、向き、配列がある。」(A38)

「現に生じているものどもの原因となるものには、いかなる始まりもなく、無限の時間をさかのぼった以前から、全体に渡って、かつて生じたもの、現にあるもの、これから生じるべきものの全てが一様に必然によってあらかじめ決定されているのである。」(A39)

「彼は分割できない大きさのものを根本存在としている」(A42)

「彼はあるとあらぬものとを始原とする。あるものとは充実体であり、あらぬとは空虚のことである。充実体は空虚の中で、向きを変え形を異なる事によって万物を作り出す。」(A44)

「アトムは相互に衝突することによってそれらに生ずる運動にはいかなる自由もなく、必然的な仕方で万物は下方に動くように思われる。」(A50)

「ミクロス・コスモスである人間」「動物も何かミクロス・コスモスのようなもの」(B34)

「決まりにおいては色があり、決まりにおいては甘くあり、決まりにおいて辛くあるが、真実にはアトムと空虚がある。」(B125)

「動物も類を同じくする動物と群れる、鳩は鳩と、鶴は鶴と群れる。(略)ふるいにかけられた種や、浜辺の小石でもそういう事を見られる。豆は豆と、大麦は大麦と、小麦は小麦と集まり、卵形の石は卵形の石と、丸い石は丸い石と同じ場所に集まる。これはまるで物における類似性が物を集める力を持っているかのようにして押しやる。」(B164)


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