倫理の話

西洋思想篇 その5

ソフィスト

Sophistês=Sophist=ソフィストとはその名の通り「知恵」のある者、という意味である。どんな知恵を彼らは持っている、と自称するかというと、現実世界で最も有益な知恵であると言う。すなわち彼らが活躍した民主制アテナイにおいては、多数の人々を「説得」しさえすればどんな役職にも就けるし、陪審制で行われる裁判にも負けはしない。そうした「知恵」を彼らは「有料で」ポリスからポリスへと売り歩く「職業教師」であった。その多くが外国人であったため、自らは「民会」や「法廷」に立つ事は出来なかったので、弟子たちの原稿を書き、説得的な演説の仕方を教えたのである。

彼らにとっては、真実がどうなっているかはどうでも良いのである。他人を納得させられればそれで十分なのである。従って「知者」を名乗るものの、彼らにとって「知恵」は、「現実的な効用をもたらすという有用さ」の限りにおいて尊重されるべきものであって、それを一歩でも外れた「知恵」には、関心がないばかりではなくそれを求める人達を役立たずと罵りさえするのである。そんな事に熱を上げるのは、「一人前の大人」のする事ではなく、若い頃に一寸嗜む「教養」であって、大の大人は現実世界において最も力を有する政治にこそ一生を捧げるべきであると主張するのである。

彼らにとっては、ポリスの「法」すら意味を持たない。しょせん「法」(ノモス=Nomos、複数形はNomoi)とは人間たちが制定したものであって、ポリスが異なれば「法」も異なる相対的なもの、人為的規約に過ぎない。

これに対して、「自然」(ピュシス=Physis)こそ永遠で不動の基準である。従って自分に都合の悪い「法」があれば、説得力を駆使して多数決によって正当な手段を踏んで新たな「法」を制定しさえすれば良いのである。たとえその「法」が出鱈目な物であっても、しょせんそれは永遠でも不動でもないかりそめの物である。世に絶対な「法」などというものは存在しないのだから、自分に都合の良い「法」を作って、自分を正当化した方が遥かに賢い生き方なのである。

主なソフィストたち

プロタゴラス

「万物の尺度は人間である、あるものどもについてはあることの、あらぬものどもについてはあらぬことの」(プラトン『テアイテトス』152A)という人間尺度命題が広く知られる。これこそ彼らソフィストの相対的価値観を代表する見解であろう。

客観的な真理などというもの(尺度)はなく、主観的・相対的真理だけがあると彼は主張する。すると、「私にとってそうである」と思われる事は、思われるだけではなく事実「私にとってそうである」ことになる。ピュシスの把握が出来ないのならば、主観的ノモスだけが我々にとっての真理となる。このことを端的に人間尺度命題は示している。

こうした見解は、プロタゴラスに神々がいるのかいないのか、どんな姿なのか知らない、と言わせる事となる。ここから彼は「無神論者」(神を信じない者=恐れ知らずの無法者)として罪を問われアテナイから追放となる。神という絶対的なものの代表を認めるかどうかは、各人にそう思われるかどうかにだけかかっているのである。従って私には女の神がいて、あなたには男の神がいても何の問題も無い。その神がそもそもいないと思う者には神はいないのである。

彼が神あるいは神の姿を知らないと言うのは、「知ることの妨げになるものが多くあり、神が不明瞭である上に、人間の生が短いからである」としている。これ自体はまことに謙虚な主張であって、ここにギリシア思想の成熟を見る事が出来るのかも知れない。と同時にプロタゴラスその人は別にしても、こうした主張を聞いた当時の若者が、伝統的価値に無条件に従う事を拒否したとしても、驚くには当たらないであろう。しかしそれは当時のギリシア人にとっては脅威であったはずである。

ゴルギアス

何ものも存在しない、存在するとしても知ることは出来ない、知られるとしても他人に伝える事は出来ない、という命題群の論証をした彼の主張の中にも、絶対的なものへの疑い(=懐疑、かいぎ)が見て取れる。

彼はどんな問いにも答えてみせると豪語していたらしい。それは彼らソフィストが、あらゆる事を知っていたからではもちろんなく、彼らが「弁論術(Rhêtorikê=Rhetorics)」によって人を「徳(Aretê=excellence、徳、卓越性)」を備えた者にすると称していたからである。

その実証として『ヘレネ頌』『パラメデス擁護』といった著作の一部が伝えられれいる。ヘレネとはトロイア戦争のきっかけになった、スパルタ王メネラオスの妻である。彼女がパリスに連れられてトロイアに行かなかったら、あの戦争は起きなかったのであるから、彼女はどう考えても悪女と考えられていた。その悪女をゴルギアスは自分の弁論の腕でもって擁護してみせるのである。

パラメデスはトロイア戦争に参加した武将だが、敵に通じたとしてオデュッセウスに告発され刑死した。この裏切り者を彼は弁護してみせるのである。これはあたかも弁護士による商品見本のようでもある。

元来は、シケリア島のレオンティノイからアテナイヘやって来た外交使節団長で、祖国へのアテナイによる援軍を要請するために民会で演説を許され、それが大好評を博した事から祖国滅亡後もアテナイに留まり、ソフィストとして活躍したと言われている。

トラシュマコス

プラトンの『国家』に登場人物として現われ、「正義とは強い者の利益」という主張を展開するのがこのソフィストである。

国家の支配階級は自分たちの利益に合わせて「法」を制定する。そうした「法」に従う事が「正義」であるのだから、支配階級=国家において権力を握る者=強い者の利益が正義であると主張する。(『国家』338Cff)

国家において、正しい人は不正な人に比べて損をすると主張する。そして不正とは自分自身の利益である(同344C)とまで言ってのける。彼の言う不正とはチマチマした小悪人の事ではなく、最も完全に不正をやってのける人の不正を考えている。独裁者はそういった人であるが、独裁者になって国家の財産を根こそぎだまし取り、さらには全国民を自分の奴隷にしてしまうと、そうした人を誰も非難などしない。かえってそうした独裁者は、国民から賞賛されるではないか、と彼は弁じ立てる。

こうした彼に答える事が、プラトンの『国家』という長大な作品であるとも言える。


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©SAITO Toshiyuki