倫理の話

西洋思想篇 その6

ソクラテス

ソクラテスについては、大学の講義ページをご覧下さい。

ソクラテスは一言で言って「嫌な奴」であった。だからこそ訴えられて死刑になった。しかし「嫌な奴」とはどういう意味であろうか。自分が最も触れられたくない事をズケズケと指摘したのである。世間ではイッパシの大立者と見なされていた政治家や技術者などに向かって、「あなたは肝心な事を何一つ知らない」と言ったのである。

ここで言う「肝心な事」とは、何が善で、何が正で、何が美かといった事柄である。そうした事を知らなければ、他にどれだけ様々な事どもを知っていても、人間にとって真実の「意味」は無いと彼は考えていた。

政治家が国を善くしますと演説で言った所で、「何が善いか」を知らなければ、そもそもこの公約は虚しいものとなる。それどころか本人は善い事をしているつもりでも、国にとってひどい事をしてしまっている等という事にだってなりかねない。

技術者が「美しい」建築物を作ると言ったって、「何が美しいか」を知らなければ、「美しい」建築物など作れるはずがない。

人が生きてゆく上で、「善く生きよう」と思っても、「何が善い」かを知らなければ、「善く生きる」事など到底望めないはずである。

人が「意味」のある生き方をするためには、それら善や美、正といった「肝心な事」を知らなければならないのに、それ以外の事を知っただけで、それさえも知ったつもりになっているのが世間で大立者と言われている人々であるとソクラテスは次第に気付く。

その解明の過程で彼は、相手の意見表明に潜む「あいまいな事」「矛盾している事」を徹底的に洗い出し、相手にそれを突き付ける術(すべ)を身に付けてゆく。それを弟子のプラトンは「エレンコス(Elenchos=論駁術、反駁術)」と呼んだ。その術自体は当時活動が盛んであったソフィストたちの「術」と本質的には変わらないものであった。

違っていたのは、ソフィストの術が事柄が「どうあるか」は問わず、ひたすら「どう思われるか」に目を向けていたのに対して、ソクラテスの関心は「どうあるか」だけであった。

またソフィストが大人数を相手に、一気に自分の意見を「まくしたてる」演説によって、聴衆の心の中に「説得」を作り出すものであったのに対して、ソクラテスが相手にするのは、一人の人間であった。彼は一人対一人で問いかけるのである。そしてそれらの問いかけと答えは、原則として一方的な長い演説ではなく、いつでも質問し返す事の出来るように、短い返答であるのが理想とされた。そうした事から、彼の方法は「対話術」とか「問答法」(Dialektikê=ディアレクティケー)とも呼ばれるのである。

そうしたエレンコスを用いてソクラテスは、「肝心の事」の追求に邁進する。しかし彼はそれを何時まで経っても手に入れられない。そこで彼は気付いた。「事柄の真実のありさま」を知っているのは完全な者=神だけであると。しかし人間である自分はそれでも真実、真理を手に入れたいと日々励んでいる。この日々励む事の中で、自分がつかんだ事は、人間として手に入れられる「知恵」とは自分が「何も知らない」という事だけであると悟る。「知らない事を知っている」=無知の知とは、こうして生まれてきたと考えられる。

魂の吟味

ソクラテスはこの無知の知を元にして、以後どのような活動に励む事になるのであろうか。「事柄の真実のありさま」を知ることが出来ないからといって、ソフィストたちのように「どう思われるか」だけを追い求めているのでは、私が「善く生きる」事は出来ないとソクラテスは思い至る。それを知ることが原理的に不可能であっても、知ろうと追求する過程自体が、私の「生」にプラスの効用をもたらす事に彼は気付いたのである。

人が「知らないのに知ったつもりになっている」、すなわち自分の「無知」を「知らない」という二重の無知を脱却して、誤った思い込みが住み着いている心=魂を良く調べる事から彼は出発する。

そこには調べたってどうせ真実は手に入らない、という悲観的な(と言うより冷静な)反応は無い。あるのはひたすら楽観的な態度である人間の魂への期待である。魂は「無知」をそこから追い払う事によって、より「優れたもの」に成れるという信念が彼を吟味の活動へと駆り立てた、と考える事も出来るかも知れない。

「優れたもの」の有様を彼らは「」とか「卓越性」と呼んだ(=Aretê、アレテー)。ソクラテスは魂に配慮し吟味する事を通じて、アレテーが魂に身に付くと考えていた。魂には「知恵」へと至る種というか芽というか、そうしたものが潜んでいる可能性を彼は信じて疑わなかったと思われるのである。

ソクラテスの魂を良く調べる過程(エレンコス=魂の吟味、ぎんみ)を見聞きしていた人々の反応は二つに分かれる。一つはソクラテスをソフィストの仲間と見なす世間の大多数。もう一つはプラトンに代表される哲学者のグループ。彼らはソクラテスの活動の中に、「知を愛し求める」典型を見い出だし熱烈に引かれていったのである。

思想史上の意味

それではソクラテスの活動は、ギリシア思想史上にどんな意味を持っているのであろうか。先に述べた「エレンコス=吟味の術」は、一方的に相手に話しかけるソフィストの演説とは異なり、一問一答の「対話」形式をもって行われた。こうした形式を「問答法(=Dialektikê、ディアレクティケー)」と言う。その原型はエレアのゼノンによる論証法に求められるのかも知れない。あるいはソフィストたちの論理展開を応用したものではないかとの推測も成り立つと思われる。

もう一点は、善とは何か、美とは何か、正義とは何か(〜とは何か=what is 〜)、という問いかけを通じて、「事柄の本質(=what 〜 is)」を哲学の問題の正面に据えた功労者というとらえ方も出来るように思われる。この問題は弟子のプラトンやそのまた弟子のアリストテレスに引き継がれてゆく。またこれまでの思想家たちが、自然=世界、宇宙を問題としてきたのに対して、ソクラテスは人間、取り分けその行い(=行為)に専ら関心を向けたのである。

さらにこれまで見てきた様々な「魂」の働きの内で、ソクラテスは「魂」の「知恵」との関係に特に着目したとも言えるであろう。人が「魂」の内に正義を持てば、その「魂」は「正しい魂」となり、「正しい魂」を持つ人は「正しい行い」をなす。こうした定式の原型は、ソクラテスの内に見られると考えられる。

そのように考えたからこそソクラテスは、魂の吟味によって魂の内に徳を産み出そうと試みたのであろうし、その可能性にかけていたと思われるのである。この道筋を明確にではないにせよ彼は確信し、自らの「方法」によって「アブのように」惰眠をむさぼる市民を刺し続けたのであろう(プラトン『ソクラテスの弁明』30E)。


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