倫理の話

西洋思想篇 その7

プラトン

ソクラテスがいなかったならば、あるいは彼と出会わなかったならば、哲学者プラトンは生まれなかったと思われる。この事はプラトン自身も認めている。彼は名門の子弟としての教育を受け、詩や劇を書き、将来は政治を一生の仕事としようと考えていた鋭敏な青年であった。そこでソクラテスと出会ったのである。彼はこれまで書き溜めてきた詩作を焼き捨て、師ソクラテスに夢中になった。魂の転向とはそうした事を言うのであろう。

またプラトンがソクラテス生きている間に書いたと推測される著作(初期対話篇とかソクラテス的対話篇と言われる)は、ソクラテスが主人公として登場しこれまた実在の人物を相手に「問答法」によって互いの魂を吟味し合い、無知をそこから取り除き、更なる思索への激励で終わる、という形式を取っている。

ソクラテスの「〜とは何であるか」の問いかけと「魂への信頼」の思想若きプラトンの心をとらえたと考えられる。前者はイデア論へと成長し、後者はプラトンの魂論へと発展してゆく。

イデア論

プラトンは師ソクラテスが問い続けた「〜とは何であるか」は、「〜そのもの」「〜の本質」を求めていた問いであると理解し、それらを「〜のイデア」と呼んだ。

イデアは目では見えない。しかし目では見えないからこそ運動・変化せず、完全な姿を保っていると彼は考えた。我々が日常生活において経験する、すなわち目で見たり、手で触れたり出来る「個々の物」は、どんなにキッチリとしていても完全ではない。ノートに書いた三角形は拡大してみれば、線や角は曲り、そもそも幅を持ってはいけない線は、幅を持っているからこそ目で見る事が出来る。点は面積を持ってはならないのに、面積を持っているから目で見える。この世の「個々の物」は、このように不完全でいずれ消え去る「はかない」物である。

人間のものを考える力・能力を「知性」とか「理性」と言う。ギリシア人はこの力を「Nous=ヌース」と呼んだ。プラトンの場合、魂の中にNousがあると考えられていた。人間はヌースによっても「見る」事が出来るとプラトンは考えた。肉体の目が「個々の物」を見るのに対して、ヌースは「イデア」を見る。

また見る能力に応じて、見られる対象の方も「個々の物」と「イデア」のある世界を別とした。すなわちこの世界とは別に、「イデアの世界」があると考えたのである。その上で「イデアの世界」が目で見えるこの世界の源であるとしたのである。

我々の考える意味での数学が扱う図形と、イデアの違いはこの点にある。数学の対象である「理想的」三角形は、目で見えるこの世界にある三角形が先ずあって、その後に理性によって想定される概念(Idea)である。これに対してプラトンの主張するイデアでは、先ずもってイデアがあり、イデアに基づいてこの世の「個々の物」がイデアの不完全な写しとして成立するのである。

この世界にある「この女神像」が美しいのは、「美のイデア」にあずかる事によって、「美のイデア」を「不完全に」写し取る事によって「美しい」。


ところで、イデアにはどんなものがあるのであろうか。善のイデアとか美のイデアといった我々が価値と考える事柄にはイデアがあると考えられる。(その他、プラトンが挙げている例には、正しさ、敬虔、節制、思慮、健康などがある)

また人間や主人、奴隷、牛といった、自然界の生きものについてもイデアがあるとプラトンは考えていた。人がこしらえた人工物では、ベット、机の例を挙げている。

抽象的な部類では、動、静、有、同、異さらには、似、不似、奇数、偶数、四角形、円などがある。

このように見てくると、この世の「個々の物」全てにイデアがあるのかと考える人がいるかも知れない。しかしこの世のものがあるからといって、それに対応したイデアが必ずあるというのは順番の逆転した発想である点は先に指摘した通りである。古代ギリシアにはなかったスペースシャトルのイデア等というものはないことになるだろう。

授業で紹介した洞窟の比喩を参照して下さい。

プラトンの魂に関する思想

ソクラテスと同じくプラトンも人間の魂に大いなる信頼・期待を抱いていた。プラトンは魂を、ピュタゴラス派やオルペウス教の影響からか、不死と考えていた。ここから、人が死ぬと魂は肉体を離れ、時期が来ると再び別の肉体の中へと入るという輪廻転生を信じていた。

魂が肉体を離れると、肉体による制限がなくなるので、魂は自由に世界の真実(イデア論をとるプラトンにとって世界の真実とは、もちろんイデアの事である)を「見る」事ができる。眼は肉体の一部であるから「見る」というのは例え話である。しかしこうした「見方」の方が本来の「見る」事なのであって、肉体を用いていては決して「見る」事の出来ない世界の真実を、魂は目にするのである。

ところが別の肉体の中に入ると、魂は目にした真実を忘れてしまうのである。しかし忘れただけであるから、何かのきっかけで「想い出す(Anamnêsis)」事があるとプラトンは考えた。これが想起説(アナムネーシス)である。

しかし想い出すには何らかのきっかけが必要であろう。師ソクラテスが一生涯をかけて確立したディアレクティケー=問答法によるふさわしい問いかけによって、何も外から教えてもらわなくても、魂は自らの内に持ってはいたが忘れていたイデアの記憶を想い出せるとプラトンは考えていたのだ。

であるからプラトンにとって、(Epistêmê=エピステーメー)とはイデアを想い出す事に他ならなかったと言う事もできるだろう。

そしてイデア、例えば正しさのイデアを知ったならば、その人の魂は正しいものとなり、正しい魂を持つ人は正しい人となる。正しい人の行いが、正しい行いなのであって、正しい人は不正な行いをしない、という事になる。正しい行いを出来ない、しないのは、いまだその人が正しさのイデアを手に入れておらず、正しさを知ってはいないからである。知っているなら行える、行えないのは知らないからだ、という主張にプラトンの倫理思想の特徴を見ることができる。

魂三部分説

しかしプラトンとて魂をそのように単純なものとだけ考えていた訳ではない。人間の「思い」には、あれもしたいがこれもしたい、という選択に関する悩みがつきものである。ソクラテスのように単純明快な偉人には無い俗人特有の悩みかも知れない。

しかしプラトンは、そうした俗人の悩みをあっさり切り捨てるには、人間の事を良く知り過ぎる程観察し知っていた。

『パイドロス』で描かれている2頭の馬と馭者の比喩において、馭者は「知性(理性)」に、右側に位置する良い馬は「気概(勇敢さ)」に、左側に位置する悪い馬は「欲望」をあらわしている。

そしてそれぞれの部分に応じて順に、「知恵」「勇気」「節制」の徳をあて、更に全体が調和しているありさまに「正義」の徳をあてる。それらと反対に悪しきありさまをしている場合には、順に「無知」「臆病」「放埓(ほうらつ=欲望の野放し)」「不正」といった「悪」が想定される。

こうした魂の「三部分説」はポリスにも対応する。「知性」は支配者に、「気概」は戦士に、「欲望」は市民に相当する。魂と国家との関係は「相似」関係にあると考えてよいだろう。

哲人王

以上のように考えるプラトンは、国家が理想的であるためには、国家をいかにしたら良く治められるかの「知恵」を備えた人物が支配者でなければならないと考えた。人間の中でそうした知恵に最も近いのは、「知恵を愛し求める者=哲学者」である。したがって、哲学者が王となるか、王が哲学者になるのでなければならないと考えた。こうした考えを「哲人王」の考えという。

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©SAITO Toshiyuki