倫理の話

西洋思想篇 その8

アリストテレス

プラトンの弟子であったアリストテレスは、師の学園アカデメイアで20年学んだ後、自らの学園リュケイオンをアテナイに開き、師とは異なる思想を展開した。彼はプラトンのイデア論を批判し、「個々の物」の本質を「形相=エイドス」と呼んだ。アリストテレスにはプラトンのようにこの世界から離れてあるイデアが、この世界の「個々の物」の源=根拠であるとは考えられなかったのである。

彼によれば、物の「姿=エイドス(形相)」が、材料(素材)である「質料=ヒューレー」と合わさって「個々の物」が出来ると考えた。

観想的生活

人の行い(行為)には全て目的がある。AはBのために、BはCのために・・・とたどって行って、最終的に行き着く目的をアリストテレスは「最高善」と呼ぶ。人はみな「エウダイモニア=幸福」を求めているとすると、人の行為は最終的にはみなエウダイモニアを目的としている事になる。

ではエウダイモニアとは何であるか。彼によると、人間を特徴付けているのは「ものを考える力=知性・理性の働き」である。したがってこの働きを十分に発揮することこそ人間の最高の幸福であると考えられる。

このように人間の知性・理性を働かせて真理を求める生活を「観想(テオリア)的生活」とし、ここに人間のエウダイモニアがあるとアリストテレスは考えた。

知性的徳と倫理的徳

魂をアリストテレスは知性的領域と、感情・欲望的領域の二つに分けた。こうした魂の領域分けに応じて、魂の徳も知性的徳倫理的徳に分けた。

知性的領域を良く働かせたありさまが観想(テオリア)であり、それは教育によって身に付く。

一方、倫理的徳はエトス、ethos=修練・鍛錬(一般には習慣と訳されていますが、正確ではありません)を通じて、繰り返し努力する事によって得られると考えています。そうしたethosを通じてエートスêthosが身に付くのです。

中庸

日常生活で身に付く倫理的徳は、過度と過少を避けることを基本とする。しかしそれは単なる中間を目指す事ではない。いかなる行為を選ぶべきかは、思慮が決定するのである。

例えば何らかの憤慨すべき出来事に直面した場合、怒りの過度とは、だれ彼構わず怒鳴り散らす事であり、そのような事は避けるべきである。また怒りの過少は単なる無関心・無反応に終わる事である。このような感じ過ぎも、感じなさ過ぎも共に善い事ではない。これらの感情(この場合は怒り)を、適切な時に、適切な事に向けて、適切な人に向けて、適切な動機によって、適切な方法で感じる事が「中庸」であり最善であり、これを優れた性格と言うのだ。そしてこの「中庸」はロゴスと思慮を備えた人によって規定されるのである(2巻6章)。

ポリス的動物

政治経済を既に履修している皆さんは聞いた事があると思いますが、アリストテレスは人間の幸福実現には、国家における善い状態が欠かせないと考えている。「人間は本性上政治的動物である」という言葉が良く知られている。

「政治的動物」とは古典ギリシア語で「zôon politikon」と言うように、本来はポリスにおいて生活する人間の特質を指している。ポリスにおいて人々は、正義(dikaiosynê)と友愛(philia)によって結び付けられる必要がある。

しかし両者の関係は平等ではなく、完全な友愛とは正義でもあると考えた。


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©SAITO Toshiyuki