無線に関する自己紹介

小学校と中学校

小学6年になった頃(1970年)、念願であった(オモチャの)トランシーバーを買ってもらうが、数十メートルしか明瞭に聞こえず、その事が電気や無線に関心を持つきっかけになった。それまで『少年マガジン』や『少年サンデー』しか買わなかった本屋へ行くと、タイトルだけ見た事のあった『初歩のラジオ』や『ラジオの製作』を買ってきて分からないままに読み漁った。

CQ Ham Radio』だけは何となく敷居が高い気がして(何せその厚さに小学生としては圧倒された)、講習会に行くまで買わなかった。無線をやるには免許が要る事、その免許を取るには国家試験を受ける必要のあること。しかし代わりに日本アマチュア無線連盟(Japan Amateur Radio League=JARL)の主催する講習会を受け、終了試験に合格すれば、一番下の「電話級アマチュア無線技士」の資格が得られる事なども、『初ラ』や『ラ製』から知った。

そこで周りに経験者がいないことから、講習会を受けようと、雑誌に載っていた開催案内を見て JARL に電話したのだ。小学生にとって、自分で電話したのは「子供電話相談室」にかけたとき以来 2 度目の事だったかもしれない。ところが既に満員になっており、その時点で初めて親に相談した。電話で、直接来てもらえれば、雑誌に乗る以前の最新情報が得られると聞かされたので、巣鴨まで連れて行ってくれるよう頼んだのだ。何せ一人で東京に行った事などなかったのだから。

そんなふうにして、ようやくJARLに行った。当時、講習会はあちこちで開かれてはおらず、巣鴨の本部で開催されているものに申し込んだ。毎週日曜日、数週間通った(もちろん一人で)。当時まだ千代田線が開通していなかったのか西日暮里駅が出来ていなかったので、北千住から日暮里経由で巣鴨まで行ったのを覚えている。また、その頃、ケンダマの玉だけを二つつないだものを、カチカチ鳴らすオモチャが流行っていたことがなぜか記憶にある。

講習会は『初ラ』や『ラ製』を 1 年近く読んでいた小学生にとっては、むしろ簡単な位の内容だった。休憩時間には、一階にあった JARL のショー・ルームを見たりしていた。フロンティアのデジタル表示のトランシーバー(これが一番インパクトがあった。赤く輝くニキシー管!)や八重洲の FT101, FT-401、トリオの TS-510 等があったように思う。

中学(1971年4月入学)

無線のクラブがあって、コールサインは JA1ZDG だった。数年前に先輩の方が創設したクラブ局があったのだ。入学前の春休み中に、JARLの電話級講習会を終了していたので、何となく入ってしまった。秋葉原に最初に行ったのも、クラブの先輩と一緒だったのかもしれない。

ラジデパ(東京ラジオデパート=中央通りから中央線のガード下を入った右側)が完成していなくて牛丼屋(今は違うが最初は吉野屋だった)の所には、イナデンがあったのを記憶しているから、もしかしたら時期が違うのかもしれない。吉野屋の牛丼を初めて食べたのも秋葉だった。先輩の中には、行きつけのジャンク屋(Junk=ガラクタを売る店)があって寄るとお茶を出してくれる、と豪語している人もいて尊敬したが、実際行ってみると何故かその店には寄らなかったのは、ハッタリだったのかもしれない。

違う先輩に連れられていった近所のシャックでは、当時流行り始めていた「マトリックス式 4チャンネルステレオ」を聞かせてもらったりしたのを良く覚えている。

★秋葉=アキバというのは普通で、アキハと今でも通は呼ぶ。元がアキハバラだから、何故途中を抜かすのか昔から分からなかった。よって、アキハの方が粋。

★シャック=shack 掘っ立て小屋。無線機の置いてある「部屋」をそう呼んだが、別棟だったのは稀である。アメリカの老舗の電気パーツ・ショップに「タンディー・ラジオ・シャック」というのがあった。

★マトリックス式=単に前のスピーカーと逆位相につないだリアスピーカーからも音が出る仕組み。何となく立体的に聞こえる気がする。

従免(無線従事者免許証)には小学生の写真(この時初めて写真屋さんに行って、白黒の免許用写真を撮って貰ったのだ!)が今でも張ってある。当時の中学は坊主頭を強制させられたので、それで識別できる。今見ると、小生意気なガキの顔だ。当時の従免は、赤い立派な表紙が付いていてオマケに郵政大臣の印が(もちろん印刷だが)押してある。日付は昭和 46年 7月 9日、番号は AVN 第 2510 号とある。

当時は申請してから、無線従事者免許証が来て、それから開局申請書を出し、局免許が来るまで半年近くかかった。無線局の免許状申請であるが、1971年当時には認定制度が既にあり、私の買った無線機も認定だったが、今とはかなり仕組みが違う。(認定はJARLが行っていた) 認定番号は JARL から認定をもらう時には必要であるが、電波監理局(現在は電気通信監理局)への書類には、送信機のブロックダイヤグラムを書かねばならなかったのだ。

従事者免許が来てからは、クラブ・コールで何度か交信した。当時のZDG(=クラブ局)のリグは、受信機がトリオ9R-59DS、送信機が八重洲< em>FL-50B プラス VFO-50(こっちはそんな名前だったと思う)。アンテナは7Mhz用ダイポール 10メーター高。トランシーブしなかったので、手動で送受信周波数を合わせる(キャリブレ=Caribration)必要があった。

★トランシーブ=送受信の周波数が自動的に合うもの。トランスミッター(Transmitter)=送信機、レシーバー(Receiver)=受信機、トランシーバー(Transceiver)=両者の合成語

★ブロックダイヤグラム=送信機の各構成部分がどんな働きをしているか、働き(機能)ごとに四角いマスメに機能名とそれに使われている真空管名を記したもの。

無線機は八重洲の FT-200S を巣鴨のトヨムラ(現T-ZONE、今はない。JARL側のロータリーに面していた)で買った。何故だか、100W 出る方を勧められたが、電話級なので S の付く 10W 出力の方を当然買ったが、こうして何も分からず 100W 機を買わされた人がずいぶんいたようだ。店員いわく、混雑しているHF帯では 10W じゃ満足に交信出来ませんよ。普段はマイクゲインを絞っておけば、10W しか出ませんから大丈夫ですなんて、めちゃくちゃな事を言っていたのだ。それが違法な事は小学生にだって分かろうというものだ。お陰で、最初の一歩から影の世界に足を踏み入れないですんだ。友人の中にもこの手で、最初から 100W 機を買わされた人が沢山いた。

アンテナはおまけにもらったマルチバンド・ダイポールを、家の敷地一杯に張った。これはアンテナ線にアルミを使った安物で、後に分かった事だが、当時トリオの何とか言うトランシーバーを買うとオマケニ付いてくるものの流用だった。どうりでサービスした訳だ。このように、今に至るまで、電気屋のセールスの質はいっこうに向上していない。大人の世界を垣間見た気がした。アンテナは7Mcからのものだったので、、一番長いエレメントが20メーターもあって、仕方ないので両端を垂直にたらした変形ダイポールとした。しかし中央が同軸ケーブルの重みで垂れ下がって、横から見ると M 字型であった。21Mc は 7Mc の 3 倍なので、とりあえずはそのまま出られ、28Mcにはもう一組エレメントが付いていた。マイクはオマケのハンドマイクだった。

電波を出す

開局(1971年9月)

免許が来るまでは、マイクを外して受信だけをして雰囲気をつかんでいた。確か朝霧高原で開かれていたボーイスカウトのワールドジャンボリーの記念特別局を聴いた記憶がある。そうこうしている内に、9月になって電監(電波監理局)から局免(無線局免許状)が来た。当時の免許状は今とは違い縦長のものだった。初交信(QSO)は関西方面(確か滋賀県だったろうか)で、21Mc の SSB だった。

7Mc帯は大変混雑していて、M 型アンテナでは他局が同時に呼んでいると、必ずと言って良い位先に応答があるのは他人のコールサインだった。そこで苦肉の策として、垂れ下がっていた給電部に TV 用の屋根馬とコンジットパイプ(屋内配線用ケーブル保護パイプ)を 2 本繋いで持ち上げた。コンジットパイプは一本が3.6mあったから計 7.2m、平屋の屋根は 4m弱あるから、約 11m に給電点が上がった。これではっきりと違いが分かるほど飛びが良くなった。もちろんステーは2段にとってやった。

こうして毎日毎日交信するのが楽しくて楽しくて、勉強するはずもなく成績は急降下。無線をやる前は1桁だった学年順位が、最悪時には 2桁の中頃にまで下がってしまった。悪い事に当時の中央中では、成績上位100位までの点数と順位を毎回張り出していたのだ。これにはちょっとばかり恥ずかしくなり、試験前1週間はマイクを外してしょうがなく勉強した。というより、親に勉強させられたのだ。幸い、塾に行けと言われなかったのは、そうしているうちに少しばかり成績が戻ってきたからのようだ。中学時代は、そんな訳で、国内QSOが主体であった。お陰でJCCは500を超えた。

第2級アマチュア無線技士

ただ馬鹿のように交信だけしていたわけではない。中学 1 年の冬、越谷無線クラブ主宰のCW講習会というのに参加して、近所の OM からモールスを習ったのだ。とりあえず頭の柔らかい頃だったので、そんなに苦労もせずに覚えられた。電信級は毎分 25字の電気通信術の実地試験があった。ところが私はそれを持っていない。教えてくれていた、OM が毎分 45字の 2級の方でも大丈夫だろうというので、いきなり2級を受けたからだ。今度は講習会で国家試験免除という方法がなかったから、中1の終わりの春休みに初めて国家試験というものを受けた。初めから受かるつもりもなかったし、大した準備もしていなかったので、学科試験には落ちてしまった。しかし電気通信術は合格し以後 3 年間は科目合格として、学科のみを受ければ良い事になった。

★OM = Old Man 別に老人だけではなく、アマチュア無線の世界で、ベテランの人をそう呼ぶ。当時は10年も無線をやっている人は、大 OMに思えた。

当時、国家試験は春と秋の年 2回しか行われていなかったので、中2 の秋(不合格)、中3 の春と受けてようやく合格した。2度目に落ちた時はこりゃあまずいと思い、その後JARL主催の学科試験対策会というのに参加した。どこかの専門学校の校舎を借りて開かれたもので、それが良かったのかもしれない。ちなみに3回の国家試験は全て蒲田の日本工学院とかいう専門学校で行われた。先に合格した電気通信術では、電信の送信、受信のテストがあった。送信は据え付けられている電鍵で電文を打つのだが、打ったものは紙テープに記録されてゆく。受信では大きな教室でオーディオテープから流れてくるモールスを解読するのだ。少しでも速く書こうと、筆記体で書いたが、英語がもう少し出来たら抜けてしまった文字くらい補えたのかもしれない。そこは中学生、まだそれほどの英語力はなかった。ようやく手にした 2級の免許、しかしその時には免許証は既に表紙付ではなく、単なる二つ折になっていた(残念)。免許証の番号は AXI 第 145号とあり、昭和 48年 6月 29日の日付になっている。満 14歳の坊主頭の中学生の写真が貼ってある。

中3になって受験勉強をしなければならなかったが、せっかく受かった 2級である。早速、変更申請書を出して、リグを100Wに改造した。駅から自宅までの地図を添えたり、緯度・経度を国土地理院の地図を買い調べて記入したり、JJY(標準電波、周波数の校正用)受信機をローカルから借りてきたりして備えた。その時借りたのは、古い9R42J だったような気がする。FT-200 には校正用の水晶がオプションであったので、それを入れた。更にその水晶の校正にJJYの受かる受信機が必要だったのだ。検査当日は、関東電波監理局の職員が、自宅まで来て、いろいろ調べて印を押してくれた。

こうして念願の 14Mc帯にも出られた。中学生という事で少しばかり珍しがられたのが、うれしかった。

★AXI=A はアマチュア無線の免許、X は昭和48年、I は第2級アマチュア無線技士を表す。先の電話級が AVN で始まる番号なのは、Vが昭和46年、Nが電話級だからだ。その後の年号は 2文字目が 2桁になった。

DXへの道

高校(1974年4月入学)

高校受験も無事終わったので、次のステップとしてタワーとビームアンテナが欲しくなった。しかしそんなお金があるはずもなく、溶接関係の工場をやっていた従兄弟に頼んで、格安でタワーを作ってもらった。Lアングルを組み合わせたもので、約 10メートル高だった。親には、しょっちゅう屋根に登っていると雨漏りすると言って、許可をもらった。費用は材料費とお礼のお酒、基礎のコンクリート、砂利、砂などで 1万円少々だった。その分ローテーターを少し良いものにした。アンテナも、メーカー製の八木は高くて手が出なかったから、やはり従兄弟に頼んでクロスマウントを溶接してもらい、竹竿をスプレッダーにしたキュビカル・クワッドを組んだ。普通の 2エレCQ ではつまらないので、14、21Mc用デュアル・バンドの3エレにした。

★ローテーター=Rotator、指向性のあるアンテナを回転させるモーター。松戸にある江本アンテナの1100MXを購入した。

★八木アンテナ=八木さんと宇田さんが発明した指向性を持ったアンテナ。普通のテレビアンテナでお馴染み。

★キュビカル・クワッド=Cubical Quad、略して CQ とも書く。1波長のループ・アンテナを四角形に配置して輻射器(Radiator)とし、その前後に導波器(Director)や反射器(Reflector)を配置したビームアンテナ。基本形はラジエターとリフレクターの2エレメント。

★クロス・マウント=四角くアンテナ・エレメントを張るため、中央のパイプ( Boom=ブーム)から、X字型にスプレッダーを伸ばしてやる。スプレッダーをブームに固定する金具をクロス・マウントという。垂直に伸びたアンテナマストに、水平に位置するブームを固定するのもクロス・マウント。

★スプレッダー=ブーム上のクロスマウントの先に付ける絶縁体で出来たロッド。風にも強いグラスファイバー製が理想だが高価。竹の上にヒシ・チューブ(あれは商品名だったのだろうか)を被せて使った。

この3エレ CQ で DX の楽しみを初めて知った。4エレ八木相当の飛びをするといわれる3エレCQだから、大きなアンテナが困難な 14メガではそこそこの飛びだった。しかし半年ほどで台風により、バラバラになってしまった。やはり竹のスプレッダーが風圧に耐えられなかったようだ。

そこで、急遽次のアンテナを用意上げねばならなかったので、とにかく丈夫なもので、14 と 21 に出れるものであれば良いと考えて、和歌山のミニマルチというところの3エレ八木を付けた。

ちなみに高校には物理部に無線のクラブ局があったが、もういいやという感じで水泳部に入った。

大学(1977年4月入学)

今思えばろくに勉強しなかったので、入れるところに現役で入った。浪人して、も少しマシな所にでもと、考えなかった訳でもなかったが、まあ良いやという感じだった。一応受験勉強のようなものも少しやった。半年ぐらいだろうか、コネクターを外して無線機は押入れにしまっておいた。そのせいか、入学して取り出すと、イマイチ調子が良くない。大学での勉強が面白く、実は学生時代はあまりアクティブにはやっていなかった。FT-200 の調子が悪いので、代わりに 50Mc 用ハンディー機を買って、暇つぶしに使った。松下電器のRJX-601(最後の50Mc帯AM/FM機。その後は SSB 主体になっていった)という、ポータブル機だった。アンテナはCQの残骸のワイヤーを切って、ダイポールをタワーと軒下の間に斜めに張ったが、製作・設置時間は数十分だった。またスプレッダーの残骸は、長く我が家の物干し竿として活躍していた。

せっかくローテーターが付いているのだからという事で、50Mc 用にマスプロの八木アンテナを買ってきて取り付けたこともあった。何エレでも良かったが、最もコストパフォーマンスの良いものを、という事で3エレにした。という訳で、学部にいた頃は、細々とローカル・ラグチューをする程度だった。高校時代に手に入れた、米軍の R-390A を売って運転免許を取るための資金にした事が今でも悔まれる。

★ローカル・ラグチユー=近所の人と、他愛のない話をグダグダすること。

大学を出てすぐに働こうなんていうほど、勤労意欲が高くはなかったので、大学院に入ってもう少し研究を続けることにした。ここでも、無線のアクティビティーは低かったが、その頃流行の2Mハンディー機(スタンダード製、ICOMのIC-2Nによく似た機種)を中古で入手したが、下らなくてすぐに手放した。大学院の2年目位から、HF帯に何故か再び目覚めてしまい、ローカルから TS-520 の中古を入手し、外付けVFOもCQ誌のハム交換室でGetした。以前からわかっていた事だが、3エレ八木の飛びの悪さには嫌気が差し、14には出れなくなるが、手軽な21Mc用2エレスイス・クワッドに変えた。これは TET 製で、軽量だったせいか長持ちした。カントリーも200を超えたのはこのアンテナのお陰だと思う。この時期にさまざまな DXer と知り合い、交信カントリーも増えていった。DXCC も申請し、エンドーズメントのステッカーももらった。当時QSTを会員になって送ってもらっていたので、エンドーズメントが受け付けられると、自分のコールサインが載るのがうれしかった。

★スイス・クワッド=2エレCQアンテナに位相をずらして給電する事により、高い利得を得るようにしたもの。HB9CV(後述)のような位相給電アンテナを1λ(波長)ループに応用したもの。スイス人が発明したらしい。

★TET=タニグチ・エンジニアリング・トレイダース、一世を風靡した新興アンテナメーカー。一時はアメリカでも大人気となった。得意分野は、位相給電方式の HB9CV(八木アンテナの両エレメントに位相をずらして給電するアンテナ)やスイス・クワッド。しかしその加工精度や強度は、お世辞にも優れているとは言えなかったが、小さなアンテナではそれ程問題にはならなかった。まあよく飛んだが、マッチングには問題があった。

★DXer=ディー・エックス・サーと呼ぶ。DX を良くやっている人。概して田舎の農夫や、閑とバイトの金がある大学生、中小企業の経営者といった人がこう呼ばれる事が多い。DXをするには弱い信号を捕らえることが第一だが、そのためには、雑踏から離れた所に大きなアンテナが必要になる。一番有利なのは地方の大地主である。借家住まいの都会人には、どうあがいても叶わぬ夢のようなアンテナで、多少英語が下手でも信号が強ければ交信できるのである。

★エンドーズメント=(Endorsement)追加申請。DXCC の基本は 100 カントリーだが、それを超えると25とか10刻みで「裏書き」=エンドーズメントができる。実際には表に小さなステッカー状のものを張る。

★QST=ARRL(American Radio Relay League=DXCC の発行元)の月刊機関紙。といっても立派な雑誌で、会員になると、毎月郵送してくれる。最初に QST を見たのは中学生の頃で、何故か田舎町の小さな本屋にあった。今でもこれは不思議である。その後その本屋で外国の雑誌を見たことは一度もない。とりあえず買ってきて、英語の勉強を兼ねて読んだが、中学生には難し過ぎた。その後、高校から大学にかけても会費を払い続け、購読していた。英語に対するアレルギーがなかったのはQSTのお陰かもしれない。最初は年間$9だったか$12だったように思う。1ドル=200円くらいの時期で、最初は郵便局から為替で送金した。その後、ずいぶん値上がりしたが、面白そうな記事を抄訳して、CQ誌の外誌記事紹介のコーナーに載せてもらうと、数千円のバイト代がもらえたので、実質タダで読めていた。

抄訳の関係でCQ誌の編集部にも知り合いが出来て、ある時頼まれて 21Mc 用 CQ アンテナの記事を書いた。そのために再び竹ざおのCQを立てたが、今度は 21 だけだったので、随分小さくてこれは長持ちした。飛びの方はイマイチだったが、時代がマルチエレメントの八木になっていたから、仕方がないのかもしれない。単体ではまずまずだったのだろうが、5エレや6エレの八木と比較すると、不利だった。

この頃、多少盛んにDXをやったおかげで、かなり熱心なDXerのお宅訪問も出来た。大抵のシャックには、大型のリニア・アンプがあり雑誌でしか見た事がなかったHenry Radioのコンソール型アンプというのも目にした。成る程良く飛ぶはずだ。

東京近郊でも最低20m高のタワーに4から5エレの八木アンテナ、キロワットのアンプ、見晴らしの良い立地条件。これらが揃わないとハナから勝負にならない。こうなると所詮は金と自由になる時間の差で、DXと交信できるかどうかが決まってしまう。語学力などほとんど関係ない。運用テクニックの差も立地条件やパワーの差を埋められない。

そう思い始めると、事の真偽はともかく興味は急速に薄れ始める。かくして私の興味は無線(交信)から、バイクへと移って行くのだった。しかし「電子工作遊び」への興味は持ち続けているので、その内簡単な玩具でも作ろうかと思っているこの頃です。

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©SAITO Toshiyuki